朝日日本歴史人物事典 「富士松魯中(初代)」の解説
富士松魯中(初代)
生年:寛政9(1797)
江戸後期の新内節中興の祖。本名野中彦兵衛。前名鶴賀加賀八太夫。2代目鶴賀鶴吉の門にいたが,鶴吉の娘ひでとの恋愛問題で鶴賀派を追われ,一時都路加賀太夫を名乗っていたが,まもなく,薩摩掾以来絶えていた富士松姓を再興し,富士松加賀太夫魯中,のちには俳名のみを使って富士松魯中と称し活動した。鶴賀派から従来の新内節を語ることを禁止されたため,新作浄瑠璃の創作に専念せざるを得なくなったが,初代富士松紫朝ら高弟の力添えもあって,多くの新作を生み出した。「弥次喜多」「真夢」が代表作。当時は新内節と区別して富士松節と称していたが,現在では,鶴賀・富士松両派とも新内節と称する。
(根岸正海)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報