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1720~1861
トリノを首都とする北イタリアの王国。1720年,サヴォイア家がサルデーニャを獲得し,王位を与えられたことによって成立。富国強兵政策により領土を拡大した。ナポレオン期には対仏大同盟に参加するが敗北し,サルデーニャ島を残し半島部の領土をすべて失う。ウィーン会議後,旧領を回復したほか旧ジェノヴァ共和国領を獲得。1848年3月,国王カルロ・アルベルトのもとで憲法を制定して立憲体制となり,その直後に第1次イタリア‐オーストリア戦争を始めるが敗北を喫する。59年に国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のもとで第2次イタリア‐オーストリア戦争を行い,北イタリアを軍事征服。住民投票によって併合を決めた中部,ガリバルディらによって征服された南部をあわせ,61年にイタリア王国を形成した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…イタリアの政治家。サルデーニャ王国首相としてイタリアの統一を達成し,イタリア王国の初代首相となる。トリノの名門貴族の出。…
… スペイン継承戦争(1702‐13)に参加したサボイア公国は,はじめフランス側,のちに反仏同盟側へと巧みに戦争を乗り切り,ユトレヒトの和約(1713)でシチリア島を獲得,王国となる。シチリア島は1720年のハーグの和約でサルデーニャ島と交換され,ここにサルデーニャ王国Regno di Sardegnaが誕生する。ビットリオ・アメデオ2世に始まる18世紀の3代の王たちは封建的諸特権,教会特権を制限し,より中央集権的な政治機構を整備するとともに,軍事力の強化に努めた。…
…北隣のコルシカ島(フランス領)のほうが歴史的にイタリア半島部と文化的関係が深かったこともあって,コルシカの言語の方がサルデーニャ語よりもずっとイタリア語に近い。また,1718年にトリノを都とするピエモンテがサルデーニャ島を領有してサルデーニャ王国を名のったため,ピエモンテとの結びつきを強め,勉学あるいは就労のために島外に出る場合,ピエモンテに行く場合が多かった。
[自然]
地質学的に見ると,サルデーニャは隣のコルシカ島とともにすでに古生代に陸化した部分を含んでいる。…
…島の北東部にヨーロッパ最大の活火山であるエトナ山(標高3323m)があり,最近では1983年に大噴火をみせた。
[サルデーニャ王国からイタリア王国へ]
ブルボン朝の両シチリア王国のもとにあったシチリアは,1860年ガリバルディらの遠征隊に征服された。これに対して,サルデーニャ王国のカブールはシチリアをサルデーニャ王国に併合することを策した。…
…ポー平原の西端に位置し,イタリア半島とフランスを結ぶ交通の要地を占める。旧サルデーニャ王国の首都としてかつては行政都市だったが,19世紀末以来のめざましい工業化によりミラノに次ぐイタリア第2の工業都市となった。 ローマの軍事植民市アウグスタ・タウリノルムAugusta Taurinorumとして建設され,6世紀にランゴバルドの公領,8世紀にフランクの伯領となる。…
…
[カルボナリから青年イタリアへ]
ナポレオン体制が崩れたあと1815年以降のウィーン体制のもとで,イタリアには次の諸国家が分立する。サボイア朝のサルデーニャ王国,オーストリア支配下のロンバルド・ベネト王国,ハプスブルク家のトスカナ大公国,ローマ教皇の支配する教会国家,スペイン系ブルボン朝の両シチリア王国,それにパルマ公国,モデナ公国,ルッカ公国などで,全体としてオーストリアの強い影響下にあった。フランス支配期の市民的諸改革は後退して,各国とも旧制復古の政策がとられた。…
※「サルデーニャ王国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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