ブラームス(英語表記)Johannes Brahms

デジタル大辞泉 「ブラームス」の意味・読み・例文・類語

ブラームス(Johannes Brahms)

[1833~1897]ドイツの作曲家。ドイツ古典音楽の伝統に立ち、19世紀後半のロマン主義を代表する。作品に、「ドイツレクイエム」のほか4曲の交響曲、歌曲など多数。

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精選版 日本国語大辞典 「ブラームス」の意味・読み・例文・類語

ブラームス

  1. ( Johannes Brahms ヨハネス━ ) ドイツの作曲家。一〇歳ごろからピアノを演奏し、シューマンの紹介で作曲活動にはいった。一八六八年「ドイツ‐レクイエム」で名声を博し、古典主義の重厚な作風で、ドイツ音楽を代表する巨匠への道を開いた。(一八三三‐九七

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改訂新版 世界大百科事典 「ブラームス」の意味・わかりやすい解説

ブラームス
Johannes Brahms
生没年:1833-97

ドイツの作曲家。ハンブルクに生まれ,同市の管弦楽団のコントラバス奏者であった父から音楽の手ほどきをうけ,幼時から才能を示した。ピアノと作曲理論を学んだマルクスゼンEduard Marxsenからはバッハ,ベートーベンをはじめ古典音楽の真髄を伝授され,音楽形成にとって決定的な影響をうける。1853年ハンガリー生れのバイオリン奏者レメーニイReményi Edeと知り合い,いっしょに演奏旅行に出かけるが,このときに彼からハンガリー・ジプシーの音楽様式を教えられ,以後ジプシー音楽に深い関心を抱くようになる。同年バイオリンの大家J.ヨアヒムを知る。そして同年秋デュッセルドルフにシューマン夫妻を訪ねる。R.シューマンはブラームスの作品とピアノ演奏に深い感銘をうけ,雑誌《音楽新時報》に《新しい道》と題する評論を草して彼を世に紹介し,さらにシューマンの推薦により彼の最初期のピアノ・ソナタ,歌曲集などが出版された。その後デトモルトの宮廷の指揮者,ハンブルクの女声合唱団の指揮者を務めるかたわら創作に専念する。この間,デトモルトではいくつかの合唱曲のほかに2曲の管弦楽曲《セレナード》(1858,59),《弦楽六重奏曲第1番》(1860)を,またハンブルク時代にはピアノ変奏曲の金字塔ともいうべき《ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ》(1861),全5集の歌曲集《マゲローネ》の最初の2集(1861,62)などを作曲し,また《ピアノ協奏曲第1番》(1858)の初演を行った。60年彼はF.リストを中心とする新ドイツ派と呼ばれた革新的なグループに対して,彼らと芸術的・美学的信条を異にする旨の宣言文をヨアヒムらと連名で発表し,のちにR.ワーグナーたちからの非難を招くことになる。

 62年9月生活の本拠をウィーンに移し,64年まで同市のジングアカデミーの指揮者を務める。63年ポーランド生れのピアノの巨匠C.タウジヒとの親交から,ピアノのためのきわめて技巧的な《パガニーニの主題による変奏曲》を作曲。68年畢生の大作である《ドイツ・レクイエム》によって作曲家としての地位を確立した。この曲は着想から10余年にわたる紆余曲折(うよきよくせつ)を経て完成されたのであるが,その背景にはシューマンの悲劇的な死(1856)と母親の死(1865)の体験が深くかかわっている。彼はこの曲の成功に力を得て《ラプソディ》(1869。アルト独唱,男声4部,管弦楽という編成から《アルト・ラプソディ》と通称される),《運命の歌》(1871)などの壮大な合唱曲を次々に完成する。

 72-75年ウィーン楽友協会の芸術監督として同協会の管弦楽団と合唱団を指揮し,自作の発表のみならず当時まだ一般に知られていないバロック音楽の紹介に貢献した。73年《ハイドンの主題による変奏曲》を管弦楽用と2台のピアノ用の2稿作曲,76年夏には着想から実に20余年の歳月を費やして《交響曲第1番》を完成する。それに続く数年間は彼の創作活動における最も多産な時期で大規模な作品が集中的に書かれた。すなわち,《交響曲第2番》(1877),《バイオリン協奏曲》(1878),《バイオリン・ソナタ第1番》(1879)と続き,79年ブレスラウ(現,ブロツワフ)の大学から名誉哲学博士の称号が贈られ,その返礼として《大学祝典序曲》(1880)を,また前後して《悲劇的序曲》(1880)を作曲する。81年には恩師マルクスゼンのために《ピアノ協奏曲第2番》を書いて献呈する。さらに同年合唱曲《哀悼の歌》,83年《交響曲第3番》,84年《交響曲第4番》が次々に誕生した。86-88年の夏はスイスのトゥーン湖畔に滞在し,《チェロ・ソナタ第2番》(1886),二つの《バイオリン・ソナタ》(1886,88),《ピアノ三重奏曲第3番》(1886)などの重要な室内楽曲を作曲した。

 それ以後彼は大規模な管弦楽曲や合唱曲の作曲に興味を失い,もっぱら室内楽曲やピアノ曲,歌曲などの創作に専念するようになる。89年ハンブルク市から名誉市民に推され,オーストリア皇帝からレオポルト勲章を授与される。翌年《弦楽五重奏曲》を作曲後,みずから創作力の衰えを悟り,91年には遺書を書いた。しかし,マイニンゲンの宮廷管弦楽団の優れたクラリネット奏者ミュールフェルトRichard Mühlfeldとの出会いから再び創作欲を燃やし,クラリネットのための一連の室内楽曲,《クラリネット三重奏曲》《クラリネット五重奏曲》(ともに1891),二つの《クラリネット・ソナタ》(ともに1894)を完成する。96年聖書に基づく歌曲《四つの厳粛な歌》の完成と前後して,ブラームスの生涯の心の友であったクララ・シューマンが死去。その悲しみと極度の衰弱からみずからも死を予期したかのように,《ああ世よ,私は去らねばならない》という曲で結ばれるオルガンのための《11のコラール前奏曲》を同年夏に作曲。これが絶筆となった。

 ブラームスはロマン主義音楽の爛熟期のさなかにあって,時代の風潮に流されず,ドイツ古典音楽の伝統に深く根ざした独自の様式を確立した作曲家である。すなわち,彼は当時一般に顧みられなくなっていたソナタ,変奏曲,室内楽曲,交響曲などの古典的形式をいま一度蘇生しようと努めた。〈過去500年間の音楽作品の総体がブラームスの作品のうちに総計されている〉と彼の評伝を書いたガイリンガーKarl Geiringerも述べているように,中世の教会旋法,ネーデルラント楽派のカノン,パレストリーナ様式,フーガ,パッサカリア,無伴奏モテット,コラールなど遠く中世,ルネサンス時代にまでさかのぼる過去の遺産が彼の音楽作品のなかで新たな光のもとに復活している。例えば,《交響曲第4番》の緩徐楽章には教会旋法が使用され,終楽章は厳格なパッサカリアで書かれている。それゆえに,彼はしばしば〈古典的ロマン主義者〉とか,〈反ロマン的ロマン主義者〉などと呼ばれている。

 ブラームスはオペラや交響詩には手を染めず,いくつかの例外(初期のピアノ・ソナタなど)はあるけれども,当時流行の標題音楽的傾向に走らなかった点でリストやワーグナーたちとは対立する立場をとった。とはいえ,彼が当時のロマン的風潮にまったく無関心であったわけではなく,むしろ同時代の音楽を知悉(ちしつ)しその行く末を深く洞察していた。とくに彼のピアノの小品や歌曲には,きわめて個人的,主観的な感情表現が多くみられる。しかしブラームスの音楽の独自性は,そのようなロマン的感情が直接的ななまのかたちで提示されたり,形式を無視した極端に走らず,つねに綿密な構成原理によって知と情の均衡を保っている点にある。このことは彼が用いた作曲技法から明らかである。彼は動機的展開の技法,変奏の技法,対位法的技法の大家であった。さらに彼の音楽の独自性を示すもう一つの点は,この音楽がドイツ民謡の精神的風土から生まれはぐくまれているという事実である。ブラームスは自国の民謡ばかりでなく,他のさまざまな国の民俗音楽も数多く収集し研究して創作の糧とした。12集にのぼるドイツ民謡の編曲や全4集21曲からなるピアノ連弾のための《ハンガリー舞曲》(1852-69)はそのような成果の一例である。事実,彼の声楽曲はもとより,器楽曲の多くの主題やモティーフのなかに民謡風な性格が見いだされる。さらに彼の《バイオリン・ソナタ第1番》《同第2番》には,それぞれ自作の歌曲《雨の歌》(1873)と《歌の調べのように》(1886)の旋律が転用されている。一般に彼の管弦楽曲や室内楽曲が複雑・精緻な構造をもっているにもかかわらず,きわめて自然で親しみやすいのは,このような主題やモティーフのもっている民謡風,歌曲風な性格に由来しているといえよう。
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百科事典マイペディア 「ブラームス」の意味・わかりやすい解説

ブラームス

ドイツの作曲家。ハンブルク生れ。少年時代にピアノを習い,酒場でも演奏して家計を助けた。1843年から高名なピアノ奏者E.マルクスゼン〔1806-1887〕にピアノと作曲を師事し,J.S.バッハベートーベンの音楽について多くを学ぶ。1853年にヨアヒム,R.シューマン夫妻と知り合い,シューマンの尽力で一躍注目を集めた。その後はデトモルトとハンブルクで指揮者として活動するかたわら作曲に専念し,《ピアノ協奏曲第1番》(1858年),ピアノ曲《ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ》(1861年)など初期の代表作を完成。1862年以後ウィーンに本拠を移し,《ドイツ・レクイエム》(1868年)で確固たる名声を築く。1872年−1875年ウィーン楽友協会音楽監督。その後は作曲に専念し,1876年《交響曲第1番》を完成。ベートーベンを継ぐ交響曲作家としての地位を確立。生涯独身で通し,晩年は室内楽の名曲を数多く残した。作品はオペラや交響詩を除くあらゆる分野にわたり,代表作にはほかに,交響曲第2番〜第4番(1877年,1883年,1884年),《バイオリン協奏曲》(1878年),《ピアノ協奏曲第2番》(1881年),《バイオリンとチェロのための協奏曲》(1887年)などの管弦楽作品,3つの弦楽四重奏曲(1859年−1876年),《チェロ・ソナタ第2番》(1886年),《バイオリン・ソナタ第3番》(1886年−1888年),《弦楽五重奏曲第2番》(1890年),《クラリネット五重奏曲》(1891年)などの室内楽作品,《ラプソディ(アルト・ラプソディ)》(1869年),歌曲集《マゲローネ》5集(1861年−1868年)などの声楽作品がある。→ドボルジャークハンスリック
→関連項目ウォルフカプリッチョシュトラウスチェロドホナーニパガニーニパッサカリアバラードビューローフィッツナー変奏曲マーラーレクイエムロマン主義

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ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「ブラームス」の解説

ブラームス

ハンブルクに生まれ、ウィーンに没したドイツの作曲家。音楽家である父から最初の手ほどきを受けたあと、地元ハンブルクの教師からピアノや作曲を学んだ。1853年、生涯の友人となるヴァイオリニスト、ヨーゼフ ...続き

出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ブラームス」の解説

ブラームス
Johannes Brahms

1833~97

ドイツの作曲家。ハンブルクに生まれ,1863年以後ウィーンに定住。ロマン主義華やかな時代に古典様式を守り,抒情的で重厚な独自の作風を創り,交響曲4,ヴァイオリン協奏曲,ピアノ協奏曲,室内楽など多数作曲した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ブラームス」の解説

ブラームス
Johannes Brahms

1833〜97
ドイツの作曲家
深い情緒,緊密な構成を特色とする重厚な古典的ロマン主義の作風を築き,バッハ・ベートーヴェンとともにドイツ音楽の「三大B」と呼ばれる。

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世界大百科事典(旧版)内のブラームスの言及

【交響曲】より

…その成果を踏襲したリストは2曲の標題交響曲を残したほか,1848年から交響詩のジャンルを開拓している。 楽劇の運動にも関連するこうした〈進歩的〉な一派に対して,19世紀後半のドイツ,オーストリアにおいてなお純粋な絶対音楽の堡塁を堅持したのが,ブラームスとブルックナーである。ブラームス(全4曲。…

※「ブラームス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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