富安村(読み)とみやすむら

日本歴史地名大系 「富安村」の解説

富安村
とみやすむら

[現在地名]鳥取市富安・富安一―二丁目、幸町さいわいちよう天神町てんじんちよう扇町おうぎまち興南町こうなんちよう南吉方みなみよしかた一丁目

品治ほんじ(通称上品治村)の南に位置し、西は智頭ちず街道を隔てて古市ふるいち村。拝領高は四〇六石余、本免四ツ七分。安政五年(一八五八)の村高(生高)五〇〇石はすべて大雲だいうん院領、物成二三五石(「邑美郡下札帳」太田垣家文書)。「因幡志」によれば家数四三・茶屋一三で、茶屋は智頭街道両側にあった。承応三年(一六五四)全村が東照宮(現樗谿神社)領となり(「格式御役筋大雲院」藩史)、当初別当寺淳光じゆんこう(のち大雲院と改称)年貢収納を直接行っていたが、取立てが困難になり、文政二年(一八一九)から万延元年(一八六〇)までの間は、在方役所による取立て方法に変更された。


富安村
とみやすむら

[現在地名]筑後市富安

現市域の南西端に位置し、東は下妻しもつま村、西は吉開よしがえ(現三橋町)中世水田みずた庄のうち。宝徳四年(一四五二)四月三日の某置文案(太宰府天満宮文書/大宰府・太宰府天満宮史料一三)に「下牟田村富安」とみえ、当地の錯乱により下牟田しもむた村内の各名主と契約を結び直している。康正三年(一四五七)には当地五町二反余に一貫五七四文の段銭が賦課されている(同年六月一日「段銭注文」同上)。江戸時代の本高は二五八石余(元禄国絵図)


富安村
とみやすむら

[現在地名]三潴町西牟田にしむた

西牟田本にしむたほん村の北に位置し、東は野中のなか(現筑後市)、西は田川たがわ村、北はいま(現久留米市)。村名は江戸期よりあったが、公式には明治四年(一八七一)三潴郡北牟田村が野中村・富安村を分村して成立(三潴郡誌)元禄国絵図に村名がみえるが、無高。「在方諸覚書」には野中村・富安村出入野として古高七八石余・役高七六石余とある。文化四年(一八〇七)の畝付帳では富安村の開田二町二反余・畑五町二反余・居屋敷八畝余。


富安村
とみやすむら

[現在地名]立田村立田 富安

北は小家こいえ村、南は松田まつだ村に接する木曾川沿いの富安輪中の主邑。「徇行記」によれば、概高三一三石余は一円蔵入地。田は一〇町五反五畝余、畑は五町三反九畝余。「寛文覚書」に戸数二五、人数一二七とある。「徇行記」は「イツレノ村ヨリモ船ニテ往来スル、サレハ家毎ニ借船ヲ以テ耕耘ノ用ヲ足セリ、此船ハ長島又ハ桑名ヨリ借リ来レリ、長一丈六尺ノ船一艘ニ付銀二十匁ツヽ損料ヲ出スト也」とし、船なくしては農業が成立たず、農隙には漁業を営んでいたことを伝え、一向宗東派の即随そくずい寺を記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android