富尾村(読み)とんびゆうむら

日本歴史地名大系 「富尾村」の解説

富尾村
とんびゆうむら

[現在地名]額田町富尾

村域の四方は山が迫り、山あいを東の桃久保ももがくぼ村より村域内を北に迂回して西の保久ほつきゆう村に通る里道がある。集落は村域内に水源を発して南下する渓流両岸と、里道沿いに立地。東はあららぎ(現東加茂郡下山村)・桃久保村、南は小楠おぐす村・麻生あそう村、北は田代たしろ(現下山村)と各々山で接する。

中世日近ひちか中山なかやま郷に属したという。「三河志」に、戦国期に富尾城主疋田勘兵衛の名がある。疋田氏は後に荻野改姓、康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」に「二百五十文 疋田孫左衛門丞殿 三川国設楽郡段銭」として登場する。長享元年(一四八七)長享番帳の幕府奉公衆に疋田姓は右京亮・三郎左衛門尉・又三郎・千夜叉・藤左衛門尉の名がある。


富尾村
とみのおむら

[現在地名]玉名市富尾とびのお

小岱しようだい山の南麓にあり、東境繁根木はねぎ川が流れる。北は石貫いしぬき村、西は立願寺りゆうがんじ村、南は岩崎いわさき村に接する。元中六年(一三八九)二月三日の菊池武照寄進状(広福寺文書)に「河床富尾田畠山野等」とみえ、石貫の広福こうふく寺へ寄進されている。永正一六年(一五一九)には「富尾之内高良たうめん弐段」が名和長顕から広福寺の公監寺禅師へ寄進された(同年四月五日「名和長顕寄進状」同文書)


富尾村
とみのおむら

[現在地名]熊本市池田いけだ三―四丁目

東は長迫ながさこ村、南は西原にしばる村、北は徳王とくおう村・釜尾かまお(現飽託郡北部町)、西は北島きたじま村・池亀いけがめ村に接する。慶長一三年(一六〇八)検地帳に「活亀之内富尾村」とあり、田方一三町七反一畝余・畠方一七町六反九畝余、分米二九九石八斗余、家数五三、うち百姓五一・奉公人二、牛五・馬一とあり、村作の茶床五畝一八歩がある。寛永一二年(一六三五)の地撫帳では、京町太郎右衛門手永に属し、当竿前は田一一町四反五畝余・畠一三町八反八畝余とある。


富尾村
とびのおむら

[現在地名]久世町富尾

旭川と目木めき川の合流地点右岸自然堤防上に位置し、北はそう村、南はなか(現落合町)、東の旭川対岸は中島なかしま村。津山藩森氏時代、耕地拡大のために平野部から「かなめぎ山」の山裾に移住したという。正保郷帳に村名がみえ、田高二〇七石余・畑高八〇石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高六一石余・開高二五石余。元禄一四年より甲斐甲府藩(徳川綱豊)領、延享四年(一七四七)より播磨龍野藩領となって幕末に至る(美作国郷村支配記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、和歌山県串本町の民間発射場「スペースポート紀伊」から打ち上げる。同社は契約から打ち上げまでの期間で世界最短を目指すとし、将来的には...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android