富田久三郎(読み)トミタ キュウザブロウ

20世紀日本人名事典 「富田久三郎」の解説

富田 久三郎
トミタ キュウザブロウ

明治〜昭和期の化学者,実業家 富田海産塩類製造所社主。



生年
嘉永5年2月22日(1852年)

没年
昭和12(1937)年12月31日

出生地
遠江国市野村(静岡県)

経歴
三河田原藩の鉄砲火術家であった祖父保五郎から化学や蘭学冶金・製薬法を学ぶ。明治5年製塩の残液である苦汁から炭酸マグネシウムを抽出するのに成功し、その製造・販売を開始、さらに23年塩化カリウム製法を開発した。のち徳島県に移り、26年板野郡瀬戸村(現・鳴門市)に富田海産塩類製造所(のちの富田製薬)を設立。その後も苦汁からマグネシウム塩や臭素化合物など、さまざまな薬品を取り出し、製品化した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「富田久三郎」の解説

富田久三郎

没年:昭和12.12.31(1937)
生年:嘉永5.2.22(1852.3.12)
明治期の化学者,事業家。海水から塩をとった残液(苦汁)から様々な海塩成分を取り出す苦汁工業を開拓した。嘉永5(1852)年遠州(静岡県)市野村の生まれ。祖父保五郎は三河(愛知県)田原藩の銃砲火術家で,尾張藩の火術顧問も兼ねた。久三郎はこの祖父から蘭学,化学,冶金,銃砲火術,製薬法を学ぶ。明治5(1872)年苦汁から炭酸マグネシアの製造販売を始め,23年には塩化カリウムの製法を発明した。原料苦汁を求めて塩産地の徳島へ移住し,26年板野郡瀬戸村に富田海産塩類製造所(富田製薬の前身)を創立。周囲の塩田から集めた苦汁を原料として,各種のマグネシウム塩,カリウム塩,臭素化合物を製品化した。

(村上正祥)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「富田久三郎」の解説

富田久三郎(2) とみた-きゅうざぶろう

1852-1937 明治-昭和時代前期の化学者,実業家。
嘉永(かえい)5年2月22日生まれ。祖父に化学,冶金(やきん),製薬法をまなぶ。明治5年静岡県で製薬業をはじめ,製塩の廃物である苦汁(にがり)から10年炭酸マグネシウム,23年塩化カリウムの製造に成功。26年徳島県瀬戸村(鳴門市)に富田海産塩類製造所を設立した。昭和12年12月31日死去。86歳。遠江(とおとうみ)(静岡県)出身

富田久三郎(1) とみた-きゅうざぶろう

1828-1911 江戸後期-明治時代の機業家。
文政11年5月5日生まれ。備後(びんご)有地(あるじ)村(広島県福山市)の人。製織技術の研究をかさね,嘉永(かえい)6年備後絣(がすり)(文久絣)を発明。染色法の技術改良にもつとめ,農家の副業として賃機(ちんばた)をひろめた。明治44年10月8日死去。84歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の富田久三郎の言及

【備後絣】より

…広島県福山地方で生産される小幅木綿絣。1853年(嘉永6)富田久三郎が竹の皮巻で防染する井桁絣を織ったことに始まる。文久絣,唐糸絣,有地(あるじ)絣,谷迫(たんざこ)絣などと呼ばれてきたが,明治初年に備後絣と称するようになった。…

※「富田久三郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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