日本歴史地名大系 「寛弘寺村」の解説
寛弘寺村
かんこうじむら
南北朝期には南朝方の河内の本拠地に近い当地一帯も戦場になり、建武四年(一三三七)一一月日付土屋宗直軍忠状(土屋文書)には一〇月一九日のこととして「打出寛弘寺河原畢」とみえる。正平七年(一三五二)二月二七日には後村上天皇が行幸の途次「東条観興寺」に立寄っている(斑鳩嘉元記)。このことは「園太暦」にもみえ、観応三年(一三五二)二月二六日条に「但暫可御東条城、楠木左衛門尉正
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報