寛弘寺村(読み)かんこうじむら

日本歴史地名大系 「寛弘寺村」の解説

寛弘寺村
かんこうじむら

[現在地名]河南町寛弘寺

神山こうやま村の北にあり、東は白木しらき村ほか。中央東寄りを北流する千早ちはや川流域を含む台地上に位置する。古来交通の要衝で、東高野街道と喜志きし(現富田林市)で分岐する千早街道富田林とんだばやし(現同上)を通って水分すいぶん(現千早赤阪村)に向かう富田林街道、東の平石ひらいし峠に通じる道などが通る。村名は当地南東部から神山にかけての地域にあった寛弘寺に由来する。寛弘寺は当地一帯が含まれた古代石川郡紺口こんく(和名抄)から寺名が生じたとも、寛弘年間(一〇〇四―一二)創建の年号寺院ともいう。

南北朝期には南朝方の河内の本拠地に近い当地一帯も戦場になり、建武四年(一三三七)一一月日付土屋宗直軍忠状(土屋文書)には一〇月一九日のこととして「打出寛弘寺河原畢」とみえる。正平七年(一三五二)二月二七日には後村上天皇が行幸の途次「東条観興寺」に立寄っている(斑鳩嘉元記)。このことは「園太暦」にもみえ、観応三年(一三五二)二月二六日条に「但暫可御東条城、楠木左衛門尉正(儀)(厳カ)其構」とあり、同寺が東条とうじよう城ともよばれたことが知られる。東条には一夜逗留した(「太平記」巻三〇吉野殿与相公羽林和睦事付住吉松折事)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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