デジタル大辞泉
「寛政の三奇人」の意味・読み・例文・類語
かんせい‐の‐さんきじん〔クワンセイ‐〕【寛政の三奇人】
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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かんせい【寛政】 の 三奇人(さんきじん)
- 江戸中期、尊皇、外交に特に関心を示した林子平、高山彦九郎、蒲生君平の三人の称。いずれも幕藩体制動揺期の寛政の頃諸国を歩き、憂国・尊皇の言動が世に奇行とみられたところからいう。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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寛政の三奇人
かんせいのさんきじん
江戸後期の寛政(1789~1801)のころ、海防の緊要性を説き『海国兵談』を著した林子平(しへい)、勤王を提唱し諸国を遊説した高山彦九郎(ひこくろう)、歴代天皇陵の荒廃を嘆き『山陵志(さんりょうし)』を編纂(へんさん)した蒲生君平(がもうくんぺい)の3人は、ともに奇行の多いことで有名であった。幕末には、この3人をまとめて三奇人とか三奇士と称した。もちろん単に奇行のみならず、時弊を先取りして嘆じ、また幕末に中心的な課題となる国防や尊王を、早く寛政のころに論じた3人の共通性が、この呼称の背景にあった。
[竹内 誠]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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寛政の三奇人
かんせいのさんきじん
江戸後期,林子平・高山彦九郎・蒲生君平の3人をさす。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の寛政の三奇人の言及
【蒲生君平】より
…また,ロシア軍艦の北辺出現を契機として1807年に《不恤緯(ふじゆつい)》を著し,幕閣に危機意識と海防の必要性を訴えた。林子平,高山彦九郎とともに〈寛政の三奇人〉と呼ばれる。《蒲生君平全集》がある。…
※「寛政の三奇人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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