寝屋村(読み)ねやむら

日本歴史地名大系 「寝屋村」の解説

寝屋村
ねやむら

[現在地名]寝屋川市寝屋・明徳めいとく一―二丁目

交野かたの郡に属し、枚方ひらかた丘陵南部に位置する。東は星田ほしだ(現交野市)。北部をほぼ東西に交野道が通り、西は太秦うずまさ村に至る。東部をほぼ南北に東高野街道が通る。集落は寝屋谷を西流する寝屋川の上流タチ川右岸の河岸段丘上にある。同段丘東端の東高野街道沿いの字大谷おおたにに出郷がある。「河内志」には「大谷 星田、寝屋二村出戸」とあり出郷大谷は星田村と当村に分属していた。北谷きたたに川とタチ川が合流して寝屋川となる合流地点付近には弥生時代後期の寝屋遺跡がある。また寝屋古墳は古墳時代後期の円墳で、一部封土は失われたが横穴式石室原形をとどめている。

正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高五一五石余、ほかに山年貢高八斗余。


寝屋村
ねやむら

[現在地名]山北町寝屋

立島たてしま(現勝木川)河口左岸にあり、西は日本海に面する。北に鉾立ほこたて岩、南にたて岩が海に突出る。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「大川分ねや村」とみえ、「縄合壱石 本納なく□□計□」「家六間 □屋敷計」とある。村の両側に岩が描かれる。正保国絵図には「禰屋村」と記され、高二三石余。村上藩領に属した。享保一三年(一七二八)の同藩領分郷村高辻帳では立島組に属し、高一五石余。宝永元年(一七〇四)頃の村上十五万石御領内諸書留帳(伴田幸一郎氏蔵)によれば、当村には番所が置かれ、富樫伝右衛門が定番を勤めていた。富樫家は廻船業を営んでおり、慶応元年(一八六五)七月には松角材を積んで新潟湊をめざし出帆した同家の持船が悪天候のため柏尾かしお(現村上市)の沖で難破している(「難船届書」柏尾区有文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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