日本歴史地名大系 「寺河内村」の解説 寺河内村てらがわうちむら 兵庫県:美方郡村岡町寺河内村[現在地名]村岡町寺河内大糠(おおぬか)村の南に位置し、集落は蘇武(そぶ)岳(一〇七四・四メートル)南西麓の緩傾斜地に発達。湯舟(ゆぶね)川右岸に注ぐ寺河内川が集落の南側を西流する。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「寺かうち村」とある。慶長六年(一六〇一)の山名豊国知行目録(池田家文書)では寺川内村とあり、高一一九石余。寛永一六年(一六三九)の知高帳、正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図でも高は同じ。天保郷帳では高一六一石余。地内字塔(とう)ノ岡(おか)にある高野山真言宗善性(ぜんしよう)寺は七美(しつみ)郡少領日下部弘道の開基と伝えられる。往古は妙見(みようけん)寺と号して六坊を有し、三重塔の建つ伽藍を構えていたとされる。 寺河内村てらがわちむら 熊本県:葦北郡芦北町寺河内村[現在地名]芦北町宮崎(みやざき)宮崎城跡の西側山麓にあり、集落西に湯浦(ゆのうら)川が形成する沖積層が広がる。寺川内とも記し、江戸時代には馬場(ばば)村・鷺浦(さぎのうら)村・福浦(ふくうら)村は「寺河内村ノ内」と記され(国誌)、三村を含んだ大村であった。寛永一〇年(一六三三)の人畜改帳に「湯浦内 寺河内村」とあり、田畠高四〇七石五斗余、屋敷数一三ヵ所、家数五三軒、男女一一九、うち女四七、頭百姓六・脇百姓一一・名子一二、馬六・牛二〇とある。同一六年の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に寺川内村とある。延宝三年(一六七五)の葦北郡湯浦手永小村限御帳(芦北町誌)によれば、男女六九、うち女二九、一五歳より六〇歳までの男一七人のうちに一人の郡筒が含まれ、竈数一〇、馬六とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by