宮崎村(読み)みやざきむら

日本歴史地名大系 「宮崎村」の解説

宮崎村
みやざきむら

[現在地名]宮崎町宮崎

東流する川とその数多い支流に沿う南北四里・東西三七里五町の広大な村域をもち、北と東は北川内きたかわうち村、南は小野田おのだ本郷はら(現小野田町)に接し、西は出羽国境の山々となっている。村名は、慶長年中(一五九六―一六一五)現在地に町場を移したところ、鎮守熊野社に向きあうようになったので村名としたという(安永風土記)。宮崎城(本宮崎)葛西大崎一揆に際し、一揆側の拠点となっており、天正一九年(一五九一)六月二四日伊達政宗は宮崎城を攻撃している。この戦闘で宿老浜田伊豆景隆は討死した。翌日城は火事を起こし落ちた。同年七月一七日豊臣秀吉は政宗に対し、「大崎内宮崎城、一揆原楯籠候之処」、城主以下数百の首をあげたことを賞し、この後も「無残所入念、出羽奥州果端々迄、置目等之事」を堅く申付けている(「豊臣秀吉朱印状」伊達家文書)

正保郷帳に田八六貫七七九文・畑三二貫一八〇文とあり、ほかに同所新田二七貫一八二文があり、雑木山と注記される。「安永風土記」は宮崎村肝入・同所検断・同所切込きりこめ町検断が書上げられており、一村に二つの町場をもっていた。田二三〇貫二四六文・畑四四貫三二七文(うち茶畑五六五文)で、蔵入は八二貫四〇文、給所は一九二貫五三三文、人頭三四二人(うち寺六・沽却禿九)のうち町住居一二一、村住居二二一で、家数三四九(うち名子一・水呑一・借屋一四四)、男九一〇・女七六四、馬六四二で、他の宿場に比べ馬が多いのが目立つ。神社は村鎮守の熊野社など三七、仏閣は一一、寺六、貞和年間(一三四五―五〇)大崎家兼の取立てた熊野神社神主五人のうちの一人を祖とする常光院など修験四と、他村に比べて断然多く、山一九、御林七ヵ銘、滝四、沼四、堤七、堰六、坂四などが書上げられている。屋敷名は三九あるが、町屋敷一二一軒、切込屋敷一七軒、麓屋敷二一軒とあるが、町屋敷および切込屋敷は宿場であり、麓屋敷は本宮崎もとみやざきである。


宮崎村
みやざきむら

[現在地名]朝日町宮崎

越後との国境近く、東はさかい村、西は横尾よこお村、南は篠川ささがわ村。南方に宮崎城跡がある。「越中志徴」の引く郷村名義抄は当村は三位さみ(佐美)郷一九ヵ村の親村で、当地からおいおいに出村ができたと記す。「古今著聞集」巻二〇には越中宮崎郡の男の飼っていた犬は阿弥陀仏を信じてか、毎月一五日に断食したと記し、「義経記」もまた宮崎郡と書いている。妙本寺本「曾我物語」巻五によれば、信濃の海野小太郎の和歌名誉譚がみられる。海野氏は木曾義仲方の挙兵以来の主力であった東信濃の滋野氏の一族である。源頼朝が浅間あさま山の巻狩に向かう途中、突然行列を横切る一匹の狐がいた。それを見た梶原景時が「忍ヒテモ夜コソコウトイウヘキニ」と詠上げたところ、すぐさま海野小太郎が「アサマニナケルヒルキツネカナ」と付け、頼朝に激賞されたという。さらに鎌倉への帰路、墨田すみだ川を渡った折、梶原とともに頼朝の栄華を寿ぐ和歌を詠み、褒美として越中宮崎一八郷を賜ったと物語られている。海野氏も含めて信濃の滋野氏は長野善光寺信仰にかかわる唱導の家系である。前記の伝承から宮崎の地と、滋野氏や善光寺信仰とかかわりがあるといえる。


宮崎村
みやざきむら

[現在地名]富岡市宮崎

神原かのはら村の北、村央を東西に下仁田しもにた道が抜け、東はいちみや村・田島たじま村、北は一ノ宮村と接する。寛文四年(一六六四)の富岡町商荷物継立訴状(県立文書館蔵)に「富岡町之儀、本ハ宮崎町と申小幡様代々御城下ニ而、何百年以前より之馬次市場ニ而」とあるように、早くより宮崎城下の町場を形成し、信州・武州に通じる交通の要衝に位置していた。慶長一七年(一六一二)町市を移し富岡町が創始されるまではかぶら川沿いの中心集落であり、飲料用・防火用に作られた上中下の三井戸を基準に、中井戸から西をなか町、東方をしも町、仲町の西方上井戸より西をしろ町、下井戸を中心とした下村の四区画に分れていた。


宮崎村
みやざきむら

[現在地名]金峰町宮崎

高橋たかはし村の南東に位置する。村の南を万之瀬まのせ川が蛇行し、川を隔てて加世田郷益山ますやま村・地頭所じとうしよ村・村原むらはら(現加世田市)がある。伊作いざく筋の当村松田まつだの南と対岸の地頭所村との間に天文一四年(一五四五)大板橋が架けられたと伝えられる(金峰町郷土史)。「三州御治世要覧」には「京竿以後、宮崎・渡り二ケ村相立候由、外ニ松田村・渡利此両村被減、宮崎ニ付」と記される。「鹿児島県地誌」では享保一三年(一七二八)に松田村・宮崎村・わたり村が合併して宮崎村と改称したと記す。宮崎の字名に渡畑わたりばた渡原わたりばる・松田が現存する。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では松田村とあり、高二千一四一石余。


宮崎村
みやざきむら

[現在地名]東根市宮崎・東根

西流する白水しろみず川の下流右岸に位置し、羽州街道の宿駅として発達。東は東根村、南は六田ろくた村。近世初期、東根村の青柳五郎兵衛が荒蕪地を開墾し、さぎもりの人々を移住させて宮崎村を称したというが(東根町史)、羽州街道の駅務に当たる者を選定して移住させたのが起源ともいう(長瀞村誌)。村名は東根村若宮八幡神社の正面にあたることによるという(東根町史)。最上氏領から元和八年(一六二二)山形藩領、正保元年(一六四四)幕府領となり、安政二年(一八五五)松前藩領。


宮崎村
みやざきむら

[現在地名]長洲町宮野みやの

赤田あかだ(現荒尾市)に源を発して南流する宮崎川沿いのなだらかな丘陵に立地し、東は向野むかいの村、西は永方ながかた村と塩屋しおや村、南は腹赤はらか村と清源寺せいげんじ村に接する。

慶長国絵図に村名がみえ、石高一千二四八石余とあり、のちの宮崎出目みやざきでめ村・向野村・永方村・塩屋村の地域を含む大村であったことが知られる。慶長一二年(一六〇七)検地帳によると田五〇町五反余・畠屋敷二一町六反一畝余・屋敷筆数二九、分米七四九石九斗余、家数四八・人数七六、牛一〇。


宮崎村
みやざきむら

[現在地名]金山町中川なかがわ

板下いたおろし村の北二町にあり、只見ただみ川南岸に発達した河岸段丘に営まれた街村。小名荻付おぎつくは村の南五町にあり只見川に沿う筏着船場。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「宮崎 六百六十九石一斗六升 御倉入」とあるが、板下村・水沼みずぬま村、早戸はやと(現三島町)を含むと考えられ、寛永七年(一六三〇)の加藤氏蔵入高目録(大沼郡誌)に「宮崎四ケ村」として高七〇一石余とあり、符合する。


宮崎村
みやざきむら

[現在地名]南陽市宮崎

吉野よしの川扇状地扇端部に位置し、小松こまつ新道に沿い露橋つゆはし関根せきね両村に挟まれ、街村状の形態を示す。村名は宮内みやうち村熊野神社の地崎を意味する(沖郷村史)。寛永元年(一六二四)安部右馬之助綱吉(二代右馬之助綱正説もある)は、米沢藩主上杉定勝より藩の鷹狩場だった関根村三〇〇石開墾の免許を受け(「開判形」安部文書)、同一五年宮崎村として取立てられた。


宮崎村
みやざきむら

[現在地名]早島町早島、倉敷市茶屋町早沖ちややまちはやおき

早島村の西に位置。天正一七年(一五八九)小串こぐし(現岡山市)落城後、一時高畠氏が居住(「高畠久吉奉公書」池田家文庫)。寛永五年(一六二八)庭瀬藩主戸川氏より分知された帯江おびえ(現倉敷市)の旗本戸川領となり(寛政重修諸家譜)、以後近世を通して同氏領。寛永備中国絵図に村名がみえ、高七八〇石。正保郷帳では当村の枝村に五日市いつかいち村が記されている。元禄備中国絵図では五日市村が独立し、宮崎村の高二〇一石とある。天保郷帳では三〇五石余、帯江村枝郷と注されている。


宮崎村
みやがさきむら

[現在地名]今治市みやさき

現今治市南部に位置する。東は登畑のぼりばた村、西は頓田とんだ川を隔てて町屋まちや村、南は同じく頓田川を隔てて朝倉下あさくらしも(現越智郡朝倉村)、北も頓田川を隔てて高市たかいち村に接している。このように宮崎村は頓田川が南から西、さらに北へと大きく湾曲する内側に位置している。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)越智おち郡の項に「宮崎村 小川有、柴山有」とみえ、村高は五一七石三斗四升八合である。


宮崎村
みやざきむら

[現在地名]大分市宮崎

大分川右岸の今曲いままがり村の上流にあり、同村から西向する肥後街道が通る。南東は鴛野おしの村。寛永一一年(一六三四)亀川藩(のち中津留藩・高松藩)領になったと考えられ、正保郷帳によると田高二三八石余・畑高一三六石余、早田わさだ庄に所属。明暦四年(一六五八)松平(大給)忠昭の府内入部の際幕府領になり(明暦四年「御取ヶ郷帳」府内藩記録など)、天和二年(一六八二)から貞享三年(一六八六)の日田藩領時代を除いて正徳二年(一七一二)まで幕府領(寛文五―六年肥後熊本藩預地)


宮崎村
みやざきむら

[現在地名]中央区宮崎町・宮崎一―二丁目・まつ丘町おかちよう白旗しらはた一―三丁目

大森おおもり村の北西に位置する。寛文元年(一六六一)から佐倉藩領で、同四年の松平乗久領知目録(寛文朱印留)に村名がみえる。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分でも同藩領で、高三二四石余。幕末まで同藩領。嘉永三年(一八五〇)の千葉筋成箇取付帳によれば免取法で、同二年から三ヵ年の定免であり、年貢米八五石余・永一〇貫五一一文余・鐚八貫二五文。


宮崎村
みやざきむら

[現在地名]波方町宮崎

高縄たかなわ半島北端から西へ突出した宮崎岬に位置する。西・南・北の三方は海に面し、東は馬刀潟まてがた村に連なっている。周辺の海は、潮流が激しく海上交通の難所として知られている。

「三代実録」貞観九年(八六七)一一月一〇日の条に「伊予国宮崎村」とみえる。しかし慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)には宮崎村の村名はみえない。元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記に至って、当村の名が波方はがた村の枝郷として現れる。天保郷帳(一八三四)にも波方村の枝郷として記載されている。村高は七三石三斗八升七合である。「野間郡手鑑」によると、享保末年から元文(一七三六―四一)頃の田畑面積は一一町九反八畝で、「新田畑」と記載されているところから、新田村として波方から分離独立したものである。


宮崎村
みやざきむら

面積:三三・八〇平方キロ

丹生郡南部に位置し、北は朝日あさひ町・織田おた町、東は鯖江市、西は越前えちぜん町、南は武生市に接する。東西一一キロ、南北五キロと細長い。西側にじよう(五一三メートル)、南におにヶ岳(五三二・六メートル)、東に三床みとこ(二七九・八メートル)などがあり、丹生山系の山間小盆地に集落が散在する。


宮崎村
みやざきむら

[現在地名]吉良町宮崎

渥美あつみ湾に突出した半島の形をなしている。矢作古やはぎふる川の東一里の海浜の村であるが、北に山地が広がり、山上には秋葉あきば大権現を祀り、秋葉山とよぶ。村名は幡頭はず神社の縁起から起こったといわれる。天明八年(一七八八)の年貢免状(吉良町有)によると村高一五七石余。


宮崎村
みやざきむら

[現在地名]大網白里町小中こなか

かどさく村の北に位置し、小中川が東流する。元禄郷帳に小中村枝郷の肩書つきで村名がみえ、高一六〇石余。寛政一二年(一八〇〇)の上総国捉飼場五郷組合帳では小食土やさしど(現千葉市緑区)五郷に当村がみえ、旗本逸見領二〇〇石。


宮崎村
みやざきむら

[現在地名]芝山町宮崎

高谷たかや村の北西、高谷川左岸に立地する。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高七五石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では牛熊組に属し、六〇石が三河中島藩領。同藩領は元和二年(一六一六)からと考えられ、寛文一二年まで続いた(「寛政重修諸家譜」など)


宮崎村
みやざきむら

[現在地名]青森市駒込こまごめ

駒籠こまごめ村の北にある。貞享元年(一六八四)郷村帳に高六二九・二石とあるが、高に疑問がある。同四年の検地帳には、田方二一町二反七畝一二歩、畑方二五町八反三畝二五歩、田畑屋敷合せて四七町一反一畝七歩、村高二二五・六三八石とある。屋敷地のうち九歩は郷蔵屋敷である。村中抱えとして漆木四千九八五本が記載される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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