宮崎城跡(読み)みやざきじようあと

日本歴史地名大系 「宮崎城跡」の解説

宮崎城跡
みやざきじようあと

[現在地名]宮崎市池内町

蛇行しながら東流する大淀川左岸の丘陵上にあり、宮崎平野を一望できる要害の地に立地する。池内いけうち城とも称した。建武三年(一三三六)一月一二日、日向国内の南朝方肝付兼重に味方する図師六郎入道慈円が宮崎の池内城に立籠って北朝方の土持宣栄と対抗、一四日に宣栄らは池内城を攻め城将の慈円らは捕虜となったが、まもなく死去している(「日向記」、「肝付兼重譜」旧記雑録、同年二月七日「土持宣栄軍忠状」旧記雑録など)。「日向記」は図師六郎入道慈円を本郷図師随円の子で一坪六郎入道慈円と記しており、国富くどみ本郷ほんごう図師職にあった庄官の一族だったのだろう。前掲軍忠状によると、慈円らは前年一二月晦日にすでに池内城に籠っていた。池内城は宮崎城の前身とみられる。

応永一〇年(一四〇三)島津元久が伊東氏領の加江田かえだ城を攻め落した際、宮崎城の兵数十人が切られたという(「島津恕翁譜」旧記雑録)。当時宮崎城は伊東氏の持城の一つであった。その後元久は大淀川南部の川南かわみなみ(穆佐・池尻・細江)を掌握すると、弟久豊を穆佐むかさに入れた。久豊は伊東祐安の娘を嫁にした関係から元久・久豊の間に亀裂が入り、元久方が久豊の所領細江ほそえで反乱を起こすと、山東さんとう河北かわきた・宮崎などの領主は反久豊方となった。反久豊方の勢力は土持氏を主力としたようで、元久が日向へ遠征する事態となったが、久豊が子虎寿丸(忠国)を元久の陣に送ったため収拾した(西藩野史)。応永一八年に元久が没すると久豊が家督を継承、翌一九年伊東氏一族で久豊の婿であった曾井氏を伊東氏が攻め、三俣みまた院・穆佐院が伊東・島津両者の合戦場となり、川北・川南の地は伊東氏の所領に転じたと伝える(島津国史・日向記)。あるいはこの時期のことかとみられる年未詳七月一二日の是親書状(禰寝文書)は、島津氏の大隅牛根うしね(現鹿児島県垂水市)への来着を伝えながら、山東と宮崎は島津方にあると禰寝氏に伝えている。

文安元年(一四四四)伊東氏は宮崎近郊の曾井そい城を落し、大塚おおつか田吉たよし・本郷・隈野くまのなどを支配下に置いた。同三年六月二〇日、土持氏一族の県伊東氏が知行していた宮崎城を攻め落し、城主として落合彦左衛門尉が入部したという(日向記)。ただ同年かとみられる七月一五日の島津忠国書状(禰寝文書)では、伊東氏が宮崎に軍勢を差向けたが敗北し、都於郡とのこおり(現西都市)方面に引上げたとされる。しかし伊東氏が宮崎を確保したのは事実のようで(文安三年一一月一五日「代官祐守寄進坪付写」・同四年閏三月二三日「代官康綱奉書写」・同六年一一月二七日「奈古社上棟記録写」奈古神社文書など)、宮崎は伊東氏の直轄領に編成された。

宮崎城跡
みやざきじようあと

[現在地名]朝日町宮崎

越中国の東端、越後との国境に近い宮崎のしろ(標高二四八・八メートル、比高二四〇メートル)に築かれている。山上からは国境のさかい川や越後の海岸、また富山湾一帯を見渡せる。北側の麓を浜伝いに通る北陸街道は、古代以来越中・越後の両国を結ぶ唯一の陸上交通路で、城はこの交通路を押える国境の要衝に位置している。城の別名を境(堺)城・荒山あらやま城・とまり城とも称した。城の起源は寿永元年(一一八二)にさかのぼる。「源平盛衰記」によると、この年高倉宮の御乳人讃岐前司重季がのちの北陸宮を奉じて北国へ下った際、木曾義仲が御所を越中宮崎に築いたと記される。「三州志」は、その御所の造営された所をこの城山ではないかと伝える。宮崎は義仲方に加わった越中の武士宮崎太郎の本拠地で、その宮崎氏が北陸宮を迎え入れるのに力のあったことは十分推測できる。

宮崎城跡
みやざきじようあと

[現在地名]芦北町宮崎 城平

宮崎の通称寺川内てらがわち豊岡とよおかの通称野角のずみに挟まれた、比高約一一〇メートルの山稜末端部にあり、山頂は長さ約二三〇メートル、幅約七〇メートルの瓢箪形に削られている。尾根続きになる北東側の鞍部に、地元の人が空堀からほりと称する大規模な二重堀がある。別称を野角岳のずみだけ城といい、湯浦ゆのうら川対岸の野嶽のだけ城をかめ城とよぶのに対し、つる城ともよぶ。

かつてこの地も湯浦のうちであったらしく、文和二年(一三五三)七月二四日の相良定長宛一色範氏感状案(相良家文書)に「肥後国凶徒葦北湯浦太郎秀基城事」とある城は、宮崎城をさすと考えられている。

宮崎城跡
みやざきじようあと

[現在地名]宮崎町宮崎 麓

宮崎町中心部の北方約八〇〇メートル、平地との比高約七〇メートルの丘陵先端にあり、東をからす川が南流、南を川が東流し、城跡の東直下で合流する。この両面は急崖をなし、北も沢で区切られる。西に続く丘陵に対しては、深さ五メートルほどの堀で区画する。「宮崎村安永風土記」に南北四〇間・東西四〇間と記される。城跡の規模は東西三〇〇メートル、南北二五〇メートルほどで、中央東西に二つの平場が配置され、その周辺に複数の狭い平場・土塁が配置される。おもな交通路は西側の南部にあったと思われる。

宮崎城跡
みやざきじようあと

[現在地名]富岡市宮崎

宮崎の西方、旧甘楽かんら(下仁田道)の信州との出入口である和美わみ内山うちやま余地よじ峠を抑える根拠地であった。西方約一キロにある神成かんなり城を併せ一体として構成され、神成城が要害城、宮崎城が里城で、多くの文献が両者を併せて一城としている。神成城は主正面を丹生にゆう谷に向け、宇田うだ城を支堡として、高田たかた(現甘楽郡妙義町)碓氷うすい道の口を扼していた。乗願じようがん寺の低い所を城谷しろたにといい、ここからを城内としていて西に展開し、櫓跡西端まで約四三〇メートルある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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