小山庄(読み)おやまのしよう

日本歴史地名大系 「小山庄」の解説

小山庄
おやまのしよう

和名抄都賀つが郡小山郷を中心に、南は寒川さむかわ郡の真木まき(現間々田付近)奴宜ぬぎ(現下都賀郡野木町)を加えたおもい川流域に立地した庄園。寛喜二年(一二三〇)二月二〇日の小山朝政譲状(小山文書)に「寒河御厨号小山庄重代屋敷也」とある。小山氏の祖政光は、武蔵国太田おおた庄から小山郷に入部し、曲輪くるわ(現神鳥谷)に方二町の居館を構え、国衙在庁官人としての地位を利用して開発を行い、その周辺を「重代屋敷」と号するようになった。政光は開発所領を当時下野知行国主であった後白河院に寄進した(院領庄園小山庄の成立)。永万二年(一一六六)後白河院は伊勢神宮の内宮・外宮に長日御幣供進料として小山庄を寄進し、寒河御厨が成立した。のち建暦三年(一二一三)にも後鳥羽院の院庁下文が出され、一円神領として法的に再確認されたが(神鳳鈔)、小山氏は地頭として支配権を保持し続けた。金沢称名かねさわしようみよう(現横浜市金沢区)が一二六〇年代に成立すると同時期に、小山長村は庄内乙女おとめ郷を称名寺に寄進したと思われる(北条系図「続群書類従」など)。建武三年(一三三六)には思川の氾濫によって発生した乙女郷の被害状況が報告されている(同年八月五日「乙女郷田数注進状」金沢文庫古文書)


小山庄
おやまのしよう

大野市西南部一帯と大野郡和泉いずみ村域、現足羽あすわ郡域の一部を包摂する広大な荘園。「和名抄」の大野郡大山おおやま郷に系譜を引くものか。いずみ庄と併記されることが多い。

長承二年(一一三三)六月一四日付の醍醐寺円光院宛官宣旨案(醍醐雑事記)に右近衛権中将藤原成通家領として「就中彼家領小山郷内舌村・木本小山村・小山坂尻村・左開村、川原郷内折立村・川原村・味美村・有羅河内・佐佐熊足河内・穴馬河内等所在之田畠、依及数百町、視聴之者、皆驚耳目」とある。藤原成通は、鳥羽院の妃美福門院の従弟であったが、当庄は嘉元四年(一三〇六)六月の昭慶門院御領目録(竹内文平氏所蔵文書)に「安楽寿院領越前国小山庄」とみえ、鳥羽院が鳥羽とば離宮(跡地は現京都市伏見区)内に創建した安楽寿あんらくじゆ院の所領となる。成通が家領を安楽寿院に寄付したとする推定は蓋然性が高い。

鎌倉初期、地頭に関する将軍源実朝書状案(三浦文書)

<資料は省略されています>

とあり、これによって、建保四年(一二一六)当庄をめぐる公武間の交渉があったこと、そして地頭北条義時に代官を派遣するよう将軍実朝から下知されたことがわかる。ただその後、地頭はしだいに当庄を侵食し、鎌倉後期には、領家奈良興福寺塔頭浄明じようみよう院と紛争を惹起するに至った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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