改訂新版 世界大百科事典 「小山氏」の意味・わかりやすい解説
小山氏 (おやまうじ)
下野国の豪族領主。藤原秀郷の子孫。下野国司(大掾,権大介)で,都賀郡小山郷および寒河郡の思川東岸地域に広大な私領を形成し,これが小山氏→後白河上皇→伊勢二宮と寄進されるなかで,寒河御厨(別称小山荘)が成立した。小山氏は,同じ藤原姓の足利俊綱・忠綱と勢力を競い,治承・寿永内乱期には源頼朝に属し,足利氏と結ぶ反対派の志田義広を下野の野木宮合戦で破り,ついで足利氏を滅ぼした。この功績に加えて政光の妻が頼朝の乳母であることによって,幕府の有力御家人と下野の守護としての地位が確定した。1199年(正治1)には,梶原景時の失脚の後をうけて播磨守護に補任された。1230年(寛喜2)の小山朝政(ともまさ)から嫡孫長村への譲状によると,小山氏の所領・所職は,下野では,権大介職を持ち,重代相伝の私領である寒河御厨や国庁を中心とした地域に所領が広がり,そのほか武蔵,陸奥,尾張,守護国の播磨に所領を持っている。
南北朝内乱期には,小山朝氏は陸奥からの北畠顕家の侵攻,常陸からの北畠親房の働きかけなどがあって,一時中立的な立場をとったが,おおむね足利尊氏に属し,弟の氏政は尊氏とともに各地に転戦した。しかし,1380-82年(天授6・康暦2-弘和2・永徳2),小山義政は宇都宮基綱との私闘が原因で,鎌倉公方足利氏満に反乱をおこし,小山鷲城,祇園城などに拠って関東の大軍を迎撃し,ついに糟尾の山中で自殺する。子の若犬丸は,その後も下野・陸奥南部で抵抗を繰り返したが,やがて敗れ,小山氏は滅亡する。しかしその後,氏満によって結城氏より泰朝を迎えて再興される。それ以来,以前ほどの勢力はないものの,鎌倉府内の伝統的豪族の一つとして,その地位を保った。15世紀中葉の享徳の乱で,古河に拠点を移した古河公方足利成氏を支えて活躍した。戦国時代には,養子縁組関係によって結城氏との結合を強め,上杉・後北条・佐竹氏らの争覇の中にあって北関東の一角に独自な勢力を形成したが,1575年(天正3)後北条氏の攻撃により小山祇園城を落とされ,屈伏した。
執筆者:峰岸 純夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報