デジタル大辞泉
「小松島市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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小松島市
こまつしまし
面積:四四・七七平方キロ
県の東部に位置する。北西部を勝浦川が北流し、南部近くを那賀川が東流しており、東部は北の根井鼻、南の和田島に挟まれた小松島湾に臨む。北から西にかけて徳島市、南西部は勝浦郡勝浦町および阿南市、南東部は那賀郡羽ノ浦町・那賀川町と接する。市域は神田瀬川・芝生川流域の小松島平野と、南部の立江川流域、東部の太田川流域の平野部など七割が平地に恵まれる。JR牟岐線が通るほか、東部を国道五五号が、ほぼ中央部を国道五五号バイパスが南北に縦貫して徳島市あるいは那賀川町方面などと結ばれている。
〔原始・古代〕
市域では遺物散布地を含めて二二ヵ所の遺跡が確認されているが、内容の明らかな遺跡は多くない。中央部の海岸に近い勢合山遺跡では銅鐸が出土している。古墳は一〇基を数え、古墳時代中期の前山古墳のほか、同後期の豊富な形象埴輪をもつ前山遺跡、同じく巨石を用いた弁慶の岩屋古墳などが知られる。なお江戸時代に田浦地区で金鍍金された三角板鋲留短甲が発見されている。当時の生活状況をうかがわせる資料に乏しいが、これらの古墳を造営した勢力が微高地に集落を営んでいたことが想定される。北部の中田町市営グラウンド遺跡では古代から中世にかけての棒状の土錘が発見されたほか、経塚も検出されている。
律令制下では当市域は北部が勝浦郡、南部が那賀郡に属したが、七世紀以前から両郡は長国(のち長評)を構成してきており、国造の長直氏は二郡に分立された八世紀から九世紀にかけても勝浦郡の郡領氏族として重要な位置を占めていた。「和名抄」に記す勝浦郡四ヵ郷のうち山寄りの地域に比定される篠原郷・託羅郷に対して、新居郷は海沿いの当市新居見地区が遺称地とされている。また那賀郡では同書にみえる坂野郷が市東部の坂野地区を含む一帯に比定される。撫養(現鳴門市)を起点として土佐国に達する海路の停泊地の一つとして中湖があり、それは南海道の支路沿いの津であるとされ、勝浦川河口部とする見解がある。勝浦郡余戸郷が海岸部の海人集落に想定すべきという説があり、交通の要所に余戸郷が置かれている例が諸国にみられるので、中湖の位置は勝浦川河口部にあたる当市域の北部あるいは現徳島市南部と考えられる。天平勝宝八歳(七五六)に名方郡内に新島庄の立券を行った造東大寺司は、その後、おそらく七六〇年代に郡を越えてこの勝浦川河口部に同庄の四番目の地区として勝浦を設定したとされている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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小松島〔市〕
こまつしま
徳島県東部,紀伊水道に面する市。1951年立江町を編入して市制。1956年坂野町を編入。もと篠原郷といい,京都小松郷にあった仁和寺の荘園であったため,地名を小松島とした。小松島湾岸は良港を抱え,源義経の屋島攻めの上陸地として有名。南岸が古い商業地。藩政時代には大坂,江戸とのアイ (藍) の取り引きが盛んであった。1923年紡績工場ができ,工業都市として発展。1964年の新産業都市の指定以来,工業都市化が著しく,化繊,食用油,製紙,花火などの工場がある。沿岸漁業も広く行なわれており,干しエビ,ちくわ,かまぼこなどの水産加工も盛ん。周辺では,たけのこ,ヤマモモを特産。市域には四国八十八ヵ所の第18番札所恩山寺や,国指定重要文化財の絹本著色釈迦三尊像のある第19番札所立江寺がある。阿波の狸合戦で知られる金長神社,雄大な展望で知られる日峯山 (192m) などがある。日峯神社は阿波三峰の一つ。坂野に海上自衛隊小松島航空隊基地がある。JR牟岐線,国道11号線,55号線が通る。面積 45.37km2。人口 3万6149(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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