小浜城下(読み)おばまじようか

日本歴史地名大系 「小浜城下」の解説

小浜城下
おばまじようか

小浜湾に面する現小浜市街地のほぼ中央、きた川と南川の間に築かれた小浜城(雲浜城)を中心にしてつくられた町。城の北方北川に架かる西津口にしづぐち橋を渡って西津侍屋敷、西南は川を隔てて竹原たわら侍屋敷となる。同屋敷と南川を挟んだ西側が城下町で、侍屋敷との間に百間ひやつけん橋が架かっていた。

町人町は室町中期に町としての体裁が整っていたらしく、文明一四年(一四八二)、同一五年の明通寺寄進札に「小浜伊賀屋彦四郎行広」「小浜近江屋彦四郎」など商人と思われる人名の記載がある。さらに、明応三年(一四九四)の同寺寄進札には近世の町名にみられる「小浜石屋小路」が記される。大永二年(一五二二)若狭守護武田元光が小浜湾と南川に挟まれる後瀬のちせ山に城を築き、西側山麓に館を構えると、同氏の被官人屋敷が町内各地に造営され、町・武混在の町並が形成された。

〔町の様子〕

平城を中心にして周囲に侍屋敷を配し、町家・寺方をまとめるという近世城下町になるのは、慶長五年(一六〇〇)京極高次が若狭一国八万五千石で入部して以後である。翌六年より竹原の地に築城を始め、同時に町並整備・侍屋敷の造営も並行された。侍屋敷は当初竹原地域を中心にされたが、寛永一一年(一六三四)酒井忠勝入部後は西津侍屋敷も整備され、同一九年頃に完成している(酒井家文書)。竹原侍屋敷は文政七年(一八二四)七月の小浜城下図(酒井家文書)によれば、大手おおて橋に直行して南北方向西側より広小路ひろこうじ(現一番町)勝間かつま町・千代せんだい町・天神前てんじんまえ(現千種二丁目)馬場丸ばんばまる(現千種一丁目)となり、南側は東西に一の堀・二の堀・三の堀があって東側に阿南あなみ町があった。西津侍屋敷は北川沿い西より南北方向にはま町・福谷ふくたに(現雲浜二丁目)うめ小路こうじ(現雲浜一丁目)があり、その北側には西より一番いちばん町・二番にばん(現雲浜一丁目)三番さんばん(現山手二丁目)なかノ町・本所ほんじよ町・さくら町・山王さんのう町・山下やました(現山手二丁目)があった。この北側は東西に延びる街路となり東西とうざい町と称され西津村との境をなしていた。

町方については元禄九年(一六九六)四月五日付市場由緒之覚(市場仲買文書)

<資料は省略されています>

と載せる。慶長一二年五月一六日付小浜東西之家数間数之覚(拾椎雑話)には「但町数四拾壱町有、家数ハ壱町ニ三十間つゝ」とあって、町並の規格性をうかがうことができる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報