小湊村
こみなとむら
[現在地名]天津小湊町小湊
誕生寺門前の漁村。西は内浦湾に面し、東は上総国大沢村(現勝浦市)、北は内浦村。平坦地は乏しく、わずかに誕生寺境内および門前にのみみられる。日蓮誕生の地といわれ、近世を通じて誕生寺(小湊寺)領。海岸沿いを伊南房州通往還が東西に走っていたが、元禄一六年(一七〇三)一一月の大地震で大沢村に通じる部分が破損したため、新たな道筋を切開くなどしたが、通行が困難であったため鮮魚荷物に限らず江戸との物資輸送には押送船を用いた(誕生寺文書)。中世は東条郷に含まれていた。文永一二年(一二七五)のものとみられる日蓮書状(日蓮聖人遺文)に「かたうみ・いちかは・こみなとの磯のほとり」、「日蓮聖人註画讃」には日蓮の父である遠江国の貫名重忠が逃れた地として「安房州長狭郡東条郷片海市河村小湊浦」がみえる。天正八年(一五八〇)八月一五日の正木頼忠寄進状写(誕生寺文書)によると、「内浦之郷小湊両谷田畠四拾石」などが誕生寺に寄進されているが、同寄進状写は近世成立のもので寄進についての確証はない。
慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では「内浦村内小湊寺」として畠高九石余。同一一年の里見家分限帳では小湊寺村、同一五年の里見家分限帳では小湊村としていずれも誕生寺領九石余。
小湊村
こみなとむら
[現在地名]平内町小湊
小湊川の河口の南岸に位置し、東は沼館村、南は内童子村、西は盛田村・藤沢村、北は福島村・福館村に接する。天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「小湊」とある。
正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎郡に村名があり、村高五一八・一五石、うち田方四六九・九五石とある。明暦二年(一六五六)黒石領となり、当村に代官所が設けられ、以来平内地方の中心的な村となった。元禄二年(一六八九)の黒石平内巳年郷帳(市立弘前図書館蔵)によれば村高六一〇・五三九石、うち田方五四八・一二九石、畑方四三・八九八石、屋敷方一八・五一二石とある。天保郷帳では五一〇石とある。明治初年の「新撰陸奥国誌」に次のようにあり、奥州街道の要衝であった。
小湊村
こみなとむら
[現在地名]加世田市小湊
唐仁原村の西に位置し、北西は海に臨む。小松原・当房・相星・屋敷・園山・上村・中間の集落がある。享和二年(一八〇二)頃までは当村の北端を万之瀬川が西流して海に注いでおり、川沿いに東の大崎浦から続く小松原浦、ほかに小湊浦があった(「加世田再撰史」加世田市立郷土資料館蔵など)。中世は加世田別符のうちに含まれていた。永和元年(一三七五)一〇月一日の加世田別符半分坪付注文(島津家文書)に伊作島津氏の知行分として「たうはうの内さかりまつ、こミなと、こひちをさかふへし」とみえる。「こミなと」は小湊、「たうはう」(唐坊)は地内の当房に比定され、「こひち」は現在の小湊に隣接する大浦町の通称越路であろうか。応永一三年(一四〇六)九月二五日の同坪付注文(同文書)に「小湊 四町」「唐坊 三町」とみえ、伊作島津氏に宛行われているが、同坪付注文では敵を退治することが条件とされており、当時伊作島津氏の完全な所領となっていたわけではない。
小湊村
こみなとむら
[現在地名]酒田市古湊町・高砂一―四丁目・高砂
上林興屋村の南にあり、西は日本海。文久二年(一八六二)の日向川新川開削前は日向川河口左岸にあり、最上川河口を大湊としたのに対して小湊と称した。正保庄内絵図(本間美術館蔵)によると、日向川の下流が小湊川と記され、当村は河口右岸にある。浜街道が通り、小湊川に舟渡六〇間と記される。同川右岸に一里塚があり、浜街道と内郷街道の分岐点となっていた。塚から当村まで三町。文政年間(一八一八―三〇)小湊川の流路を変えたため、当村は左岸となった(「出羽荘内二郡絵図」鶴岡市郷土資料館蔵)。
小湊村
くみいむら
[現在地名]名瀬市小湊
名瀬勝村の南東にあり、集落は広い入江に臨む。東に仲干瀬崎がある。昔、イイマランコラという沖縄の王子と王女の兄妹が夫婦関係になったので、二人を水の漏れない箱に入れて海に流したところ、小湊の南に漂着した。二人は石を担いで山頂に登り、その石に乗って小湊を眺め、シマ(村)の中心を定め、そこに暮らしたという。かつてシマが大里と称される山麓の方にあった頃、当地を領知した平家の落人がなぜ不便な奥に住むのかと問うと、浜方は海賊が来るからと答えたという。大里は古里の転訛か(名瀬市誌)。古見間切古見方のうち。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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