精選版 日本国語大辞典 「小田原町」の意味・読み・例文・類語 おだわら‐ちょうをだはらチャウ【小田原町】 江戸日本橋にあった横町。大正時代まで魚市場があった。 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
日本歴史地名大系 「小田原町」の解説 小田原町おだわらちよう 愛知県:名古屋市中区小田原町[現在地名]中区丸の内(まるのうち)二丁目車(くるま)ノ町の東、永安寺(えいあんじ)町の西に位置する。桑名(くわな)町筋と本(ほん)町筋に挟まれた三丁をいう。初め東一丁目(ひがしいつちようめ)町とよばれたが、承応元年(一六五二)改称した(尾張志)。一説には寛永一七年(一六四〇)ないし慶安元年(一六四八)に改号し、同二年には小田原町ととなえたという(尾張城南陌名由緒)。清須(きよす)越しの町であるが、一町または一村がそっくり移ったわけではない。慶長一五年(一六一〇)から元和三年(一六一七)までの間に、清須とその周辺や他国からおいおい引越してきてできたらしい。 小田原町おだわらちよう 京都市:下京区修徳学区小田原町下京区室町新町ノ間五条上ル南北に通る衣棚(ころものたな)通(小田原町通)を挟む両側町。町の北側は、万寿寺(まんじゆうじ)通(旧樋口小路)にも面する。平安京の条坊では左京六条三坊一保七町中央の地。近世以前、当町は六条佐女牛(さめうし)八幡宮(現若宮八幡社)の灯明料所で、源氏町また千草町と称した区域に含まれていたという(→材木町)。寛永一四年(一六三七)洛中絵図や寛永以後万治以前京都全図には「小田原や丁」とみえる。これらに続く、寛文一二年(一六七二)洛中洛外大図や寛文五年刊「京雀」をはじめとした絵図・町鑑類では「小田原町」とされる。後者は前者がつづまったもので、前者が古称であろう。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報