材木町(読み)ざいもくちょう

精選版 日本国語大辞典 「材木町」の意味・読み・例文・類語

ざいもく‐ちょう‥チャウ【材木町】

  1. [ 一 ] 東京都中央区八丁堀四丁目にあった地名。材木の陸揚地。
  2. [ 二 ] 東京都江東区木場にあった地名。材木問屋が多かった。
  3. [ 三 ] 東京都千代田区神田佐久間河岸(がし)の俗称。
    1. [初出の実例]「神田佐久間町里叟旧記曰、河岸通新町と唱候場所共、町々材木渡世仲ケ間にては神田材木町と申来候」(出典:日本財政経済史料‐三・経済・商業・材木商・慶長九年(1604)八月日)
  4. [ 四 ] 東京都港区芝四丁目にあった地名。

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日本歴史地名大系 「材木町」の解説

材木町
ざいもくちよう

[現在地名]金沢市扇町おうぎまち東兼六町ひがしけんろくまち小将町しこしようまち横山町よこやままち・材木町・橋場町はしばちよう

味噌蔵みそぐら町・小将町の東方、東外総構堀の東岸に沿い、南東から北西に長く続く町並をもつ。一―七丁目に分れる。南東小立野こだつの台尻(宝円寺下)より一丁目(現扇町・東兼六町)が始まり、二丁目(現扇町・東兼六町・小将町)・三丁目(現横山町・材木町)と上って、浅野川詰の七丁目(現橋場町)に至る。東は御小人おこびと町・備中びつちゆう町などの数町を除くと多くは武家屋敷地で、北は橋場町・並木なみき町に続く。古くは一―三丁目を上材木町、四―七丁目を下材木町と称した(文政六年町奉行より出候町名)。なお四―五丁目の東側武家地は材木町横町とも称された。

町名の由来については元和二年(一六一六)城下町の建替えが行われた際、石川御門前紺屋こんや坂辺りの町家が当地に移転させられ、このときに立退料として材木を与えられたためとか(「加府事蹟実録」加越能文庫)、当地にかつて材木蔵が置かれていたためとか諸説がある(亀の尾の記)。しかし、佐久間盛政統治の時代にすでに町立てされていたともいわれているが、三州寺号帳に載る田井たい村天神(現椿原天満宮)の由来によると、材木町剣崎けんさき(二丁目と三丁目の間)の辺りは慶長年間(一五九六―一六一五)に町並ができ、同所にあった田井村が移転させられたといい、また慶長六年には善福ぜんぷく寺・光誓こうせい寺が大桑おおくわ村から当町に移転しており(寺院明細帳)、この頃に町づくりが進行したとも思われる。


材木町
ざいもくまち

[現在地名]姫路市材木町

姫路城の西にある市之橋いちのはし門の西側に位置する町人町。船場せんば川沿いの南北に長い町筋。播磨府中めぐり(智恵袋)によると中世はこの辺りを岡とよび、大木や大歳おおとしの社があり民家はなかったという。播磨国衙巡行考証(同書)にはなか村の出在家とある。当町の成立について姫辺雑記(姫路市立城内図書館蔵)は元和四年(一六一八)に姫路藩主本多忠政が町立てしたとし、元禄八年(一六九五)の材木町材木屋共口上書(穂積家文書)には、初め材木屋は龍野たつの町・さかい町・竹田たけだ町・生野いくの町・橋之はしの町の五町にあったが、寛永元年(一六二四)本多忠政が城下の材木屋を当地に集め町立てしたとある。成立当時は「舟入新町」といい、同年の舟入新町地子帳(前川家蔵那波文書)に「美濃守様御代ハ材木町小利木町一紙之地子銀帳ニ而舟入新町と云也」と加筆(元禄八年か)があり、当初の短期間材木町と小利木こりき町を併せて舟入新町といった時期があったと考えられる。


材木町
ざいもくまち

[現在地名]中央区天神てんじん三丁目

東職人ひがししよくにん町とふな町の東に位置する。東西に延びる南側の片側町で、北側には西より浄土宗鎮西派少林しようりん(現浄土宗)、曹洞宗安国寺、妙蓮みようれん(現浄土真宗本願寺派明蓮寺)がある(以上、福岡博多近隣古図)。町の中ほどから南の中名島なかなじま町に通じる通りをあぶら町と称したらしい(続風土記拾遺)。町名の由来は、黒田長政が福岡築城の際に名島(現東区)から伐り出した(または買上げた)材木の置場としたことにちなむという(「続風土記拾遺」など)。元禄三年(一六九〇)の家数五四(続風土記)。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数六二(うち麹家一)となっている(別本「続風土記附録」)。「続風土記附録」土産考に「鉄砲師・地張屋が先祖には、俸禄厚く賜りしと言伝へたり」とあるが、当町には銃製品にかかわる者が多くみられた。


材木町
ざいもくちよう

下京区新町通五条上ル

南北に通る新町しんまち(旧町尻小路)を挟む両側町。町の北側は万寿寺まんじゆうじ(旧樋口小路)に面する。

平安京の条坊では左京六条三坊一保二町東側及び七町西側の地、平安中期以降は樋口町尻小路の南にあたる。院政期当町西側には、大江氏歴代の書庫江家文庫ごうけぶんこがあった(兵範記・本朝世紀)。また「本朝世紀」仁平三年(一一五三)四月一五日条に火災で「皇后御所」が焼失したと記すが、これは近衛天皇の皇后藤原多子の御所であろう。その場所は「六条坊門北町東」とあるから、当町南東の地にあたる。


材木町
ざいもくまち

[現在地名]明石市材木町

東樽屋ひがしたるや町の南側の町。城下町の中心街を形成した町の一つで、元和四年(一六一八)の築城とともに成立した明石惣町一〇町の一町(明石名勝古事談)。享保六年(一七二一)改によれば役門二一間七分五厘、家数一七〇(本家四〇・借家一三〇)、建家表地口二一四間三尺、人数七五六。町内の福蔵ふくぞう坊前の丁を馬屋うまや町、さらに馬屋町の南側の浜から東側の浜までの丁を竹屋たけや町とよんでいた(明石記)。町名は城下町建設当初材木商の関係者が集められたことに由来(明石市史)。正保二年(一六四五)の調べでは、長林ちようりん寺の少し北、東樽屋町との境界となっていた溝に石橋が、宝林ほうりん寺前の北にあった溝と町番所前の溝にそれぞれ板橋があった(明石名勝古事談)


材木町
ざいもくまち

[現在地名]長崎市賑町にぎわいまち

本紺屋もとこうや町の西、中島なかしま川右岸にある長崎そと町の一ヵ町で、船手に属した。町並はほぼ南北に形成され、南は榎津えのきづ町に通じ、北は今下いました町に接する。文禄二年(一五九三)畑地を開いて町立てが行われ、外町では最も古く成立した四町の一つ。本紺屋町などの諸町とともに慶長二年(一五九七)の町立てともいう(長崎拾芥)。材木の集積場が設けられ、材木屋が集住していた。慶長年間に長崎から津田又左衛門が商売のために暹羅まで行き、六、七百人もいた日本人町で、山田長政とともに軍将としてゴア国と交戦したことから国王に賞され、その息女を妻とし、寛永(一六二四―四四)の初め頃に長崎に帰り、材木町の乙名に任じられたという(長崎志)


材木町
ざいもくちよう

[現在地名]江東区福住ふくずみ二丁目

あぶら堀北岸の町屋。深川材木ふかがわざいもく町とも称した。土地は鉤の手に曲がっており、周囲は北が清住きよすみ町代地・海辺大工うみべだいく町代地、西が東永代ひがしえいたい町、東が小普請組などの御家人屋敷や、仙台せんだい堀と油堀を結ぶ枝川を挟んで富久とみひさ町。寛永年間(一六二四―四四)深川は海面が入り込み陸地が少なかったが、大川(隅田川)沿岸の当町周辺は寄洲(自然堤防)があり土地が高かったため、本材木ほんざいもく町・三十間さんじつけん(現中央区)、神田辺に集中していた材木商の材木置場となっていた。しかし元禄一二年(一六九九)一帯が収公されて関東郡代伊奈半左衛門により土地の開拓・整備が行われ、同一三―一四年にかけて土地の買請けを希望する町人の出願を受付けて代金上納のうえ買取らせ、江戸市中同様に家作改御免の町場となった。


材木町
ざいもくちよう

[現在地名]沼田市 材木町

城の東側を南北に長く走る材木町通に沿う。北はやなぎ町、東は原新はらしん町。同通の中ほどから西へ伊勢町いせまち通・本町ほんちよう通が延びる。「沼田町記」延享五年(一七四八)写分では、永禄三年(一五六〇)に町割をしたとされ、沼田城下の最古の町の一つ。南北に三二八間で町家数一二七・人数四〇二。材木商などが集住していたと思われるが、寛政二年(一七九〇)には後閑ごかん(現利根郡月夜野町)大工宿に逗留していた越後国三島さんとう出雲崎いずもざき(現新潟県三島郡出雲崎町)の大工七人の宿鑑札拝借願が当町の大工肝煎幸八宛に出され(「宿鑑札拝借証文」増田文書)、嘉永二年(一八四九)越後国刈羽かりわ十日市とおかいち(現新潟県刈羽郡刈羽村)の大工職四人の国送証文の宛先は当町役人衆になっており(「大工職人人別送状」桑原文書)、木材に関連する諸職の者たちも集まっていたと思われる。


材木町
ざいもくまち

[現在地名]高知市はりまや町一―二丁目

南種崎みなみたねざき町の東部北側に並行する町。西は紺屋こんや町、東は横堀に至る。高知城下建設当初は赤岡あかおか町・樽屋たるや町・佐賀さが町の三町があった。寛永二年(一六二五)この三町の人々が私費で横堀より西へ新堀をうがち、両岸に道をつけて堀を挟む両側町とした。この褒賞として二代藩主山内忠義より新堀川法度(「高知風土記」所収)が出された。


材木町
ざいもくちよう

[現在地名]岡崎市材木町

岡崎城の北、大林だいりん寺と外堀の間にほぼ東西に通ずる東海道往還筋の町。東は連尺れんじやく町、西は下肴しもさかな町に接する。岡崎宿伝馬役町の一。町の長さ五町一二間四尺余、幅東口二間四尺・中間三間・西口二間五尺。「竜城中岡崎分間記」(中根家文書)、「山家樵談」(岩瀬文庫蔵)などは、正保(一六四四―四八)頃まで東海道往還は材木町を通らず、連尺町から大林寺南の堀端を通って田町たまち口へ通じていたと記す。正保二年岡崎城主として入封した水野忠善が、街道を連尺町からやや北上させて材木町を通るようにしたのであろう。

町名の起りについて「三河国名勝志」は「往古は稲前いなさき神祠の社地にして、巨大の樹木林を為し、欝密幽実に深林なりしが、城市開区の時、樹は尽く伐払、匠工の手を経て、或は柱梁とし、或は板桷となし、それを売得せし処を材木町と云ひ、板屋町といひ、今に呼伝ふと云」と記す。


材木町
ざいもくまち

[現在地名]山形市十日町とおかまち二―三丁目・三日町みつかまち二丁目など

三日町の北にあり、西は十日町、北は蝋燭あかし町、東は諏訪すわ町と小荷駄こにだゆみ町。最上義光の産業奨励策により材木業者が集住した両側町。最上氏時代城下絵図には「木町」と記される。元和九年(一六二三)の江俣村検地帳(山形県史)などに材木町がみえる。元禄一〇年(一六九七)の屋敷家数等覚(山形故実録)によれば、三日町よりさや町境までの町の長さ二町一七間・幅三間四尺、石橋三。


材木町
ざいもくちよう

[現在地名]鳥取市材木町・東町ひがしまち三丁目・西町にしまち五丁目・玄好町げんこうちよう

玄好町の北東にある。丹後口たんごぐち御門(湯所下の惣門)より出合であい橋までの北東から南西へ走る通りに沿う。一名を丹後町または内丹後うちたんご町ともいう。元和五年(一六一九)城下町拡張に伴い郭内より移された町と推察される(鳥府志)。同年の城下町割のとき、四〇町のうち下構二〇町の一町として起立された。町名はふくろ(旧袋川)の下の入口に材木商が住んでいたことにちなむという。寛永一一年(一六三四)の竈数二五(因幡志)。安永七年(一七七八)の家数一〇一、表口間数合せて一八六間余、諸役御免の定夜番所拝領屋敷と医師山口仙得自分屋敷があり、五間を占めていた。


材木町
ざいもくちよう

[現在地名]宇都宮市材木町・西にし一―二丁目・大寛だいかん一―二丁目・小幡おばた一丁目・伝馬町でんまちよう

南北の日光街道筋に沿う平坦な町人町。北は新石しんこく町、南は挽路ひきじ町に通じる。東は郭内すじ、西は材木横町代官だいかん町。古くは材木問屋が軒を並べ、城中の用材を調達したので町名となったと伝える。松平忠弘時代の城下図(東大史料編纂所蔵)に町名がみえる。宝永七年(一七一〇)の町分掃除丁場は六番組一二三間のうち九三間を受持ち、城中草刈人足は七人を差出す(宇都宮史)


材木町
ざいもくちよう

[現在地名]水戸市ほん町三丁目

うら七町目から東方へ続く町。町の東の出口の木戸を通ると浜田はまだ村へ出て渋井しぶい村へ通ずる。東は浜田村、北は曲尺手かぎのて町。寛文の末頃曲尺手町のうち七五間余が当町へ入る。「新編常陸国誌」に「古記云、東側三十七間、西側十一間、南側二十七間余、戸数十九」とある。同書に「下町ノ未開ケザル以前ハ、此辺ニ少ク宿並アリテ、田町ト称」したとあり、「水府地名考」には「田町開けさる已前より、右の通り筋に宿並少しありて、夫を田町と称せし歟、後に寛永二年本町及ひ諸町を開かれ田町と名付られし時、初めより田町と称せし所を本田町と唱へし様に思ハるゝ也」と記す。この辺りは木材取扱の商家が多く、水戸藩では寛文五年(一六六五)に竹木商人を当町に集め、竹木・挽臼・桶類の独占的売買を許可した。


材木町
ざいもくまち

[現在地名]出石町材木

魚屋うおや町の南部から東に続く町人町。北は岩鼻いわばな町、南は伊木いぎ町。本町六ヵ町の一で、名主を置く。西流してきた谷山たにやま川は当町の東端で直角に折れ、流れを北に変える。北流に変わった同川は再び直角に折れ、当町と岩鼻町の間を西流、当町地内でもう一度直角に折れ、流れを北に転じた。初めに直角に折れる所と、次にまた西流に転じる所には石垣を積んで築堤した。竪町は東西路で、出石封内明細帳、文化七年(一八一〇)の城下絵図などによると、魚屋町東側竪町の南端、出石城の東門駒寄(伊木町弘道館前)から東へ延び、谷山川に架かる欄干橋まで長さ七三間・幅二間一尺の道(中央に幅一尺余の溝)の両側町。


材木町
ざいもくまち

[現在地名]津山市材木町

東のみや川、南の吉井川の合流地点に位置する。出雲往来の宮川に架かる林田はいだ大橋(東大橋・宮川橋)の西橋詰から東西に連なる両側町で、西は伏見ふしみ町、北は城の堀を隔てて内山下うちさんげ。成立は慶長九年(一六〇四)(津山誌)、正保城絵図に町屋がみえる。町名は築城の用材置場にちなむという(同書)。宮川に沿って北に城の東大橋門(「森家先代実録」。「作州記」は東口門)があり、城下中央部の東の要衝にあたる。


材木町
ざいもくちよう

[現在地名]盛岡市材木町

大仁王おおにおう小路西詰から北西に延びる三町ほどの町人町(内史略本「盛岡砂子」など)。北東は北部で田畑、南部でなが町に接し、南西を北上川が限る。北西はかや町につづく。当初は岩手町と称し、町名は岩手山を正面に望むことに由来した(同書)。寛永城下図に岩手町とみえ、すでに両側町が形成されている。なお同図によると、当町の南西裏の北上川に面した片側町は侍町であった。「雑書」慶安四年(一六五一)八月一六日条によると、岩手町を材木町と改称。


材木町
ざいもくまち

[現在地名]会津若松市材木町一―二丁目

みなみ山より材木を伐り、鶴沼つるぬま(阿賀川)に流して商売していた商人たちが、初めは郭内米代よねだいの西に住んでいたが、慶長一四年(一六〇九)この地に移って材木町と称したという。河原かわら町の西端を南に折れた所にある(新編会津風土記)。町の西をふる川を合せた応湖おうご川が流れる。寛文六年(一六六六)の「会陽町街改基・惣町」では竈一二二、男二九八・女二五五、馬二九で、材木屋一一・酒屋八・質屋五、大工・紺掻各三、桶屋二、雑鍛冶・木挽・鋳物師各一がいた。


材木町
ざいもくちよう

下京区七条東洞院東入

東西に通る七条通(旧七条大路)を挟む両側町。江戸時代には南側は御土居おどいを境とし、愛宕おたぎ柳原やなぎはら村と接していた。町を南北に東から河原町かわらまち通・高倉たかくら(旧高倉小路)東洞院ひがしのとういん(旧東洞院大路)が通る。

平安京の条坊では、左京七条四坊二保四町南側・五町南側及び三保一二町南西隅、八条四坊一保一町・八町北側及び四保九町北西隅の地。


材木町
ざいもくちよう

[現在地名]中区中島なかじま

天神てんじん町の通りの西に平行して通る町で、北は中島本なかじまほん町、南は木引こびき町の通りに出る。町名は昔から材木を商う者が多く居住したことによるという(知新集)。中島組に属した。

元和五年広島城下絵図に材木町として町間数一町四〇間とみえ、寛永二年広島町数家数改め(済美録)は本家五五軒・借家一〇〇軒をあげる。承応の切絵図には家数六〇、町間数二一八間三尺三寸五歩とあり、うち材木屋二四軒、同抱屋五軒がみられる。また「知新集」では石橋二、町門二、町間数四丁二八間九厘八毛、竈数一五〇(本竈二九・借竈一二一)、人数五八五(男二七三・女三一二)、うち鍼治導引四人、大工二四人、木挽六人、柿葺五人、傘張四人、檜物師二人、左官一人の計四二人の職人をあげる。


材木町
ざいもくまち

[現在地名]高砂市高砂町材木町

船頭せんどう町の南に位置し、高砂町方二八町の一つ。元禄期(一六八八―一七〇四)の高砂町図(船津家蔵)によると、南堀みなみほり川北岸沿いに東浜ひがしはま町から北本きたほん町までの東西に連なる問屋町。安永二年(一七七三)の棟数一三・竈数一〇・店借一、人数四六、うち田地持七(「高砂町方明細帳写」船津家文書)。三浦(塩屋)甚兵衛・中須(米屋)又右衛門は天保五年(一八三四)から同八年まで高砂町大年寄を勤めた(「宗門人別帳」菅野家文書)。同一二年の家数一四・人数五二で、御用達大年寄格松浦長兵衛・町年寄炭屋六右衛門のほか組頭が二人いた(「宗門人別帳」高砂市蔵)


材木町
ざいもくまち

[現在地名]唐津市材木町

現市街地の東部、松浦川の左岸沿いにある。唐津城築城時の町割による一町。「松浦要略記」は「材木町は惣町御取立の時、捨浜にて候ところ、志摩守様天守台より御遊覧被成候折城下に船着きの所これなく候間、水堀ほらせる様被仰付、町奉行役人入江吉兵衛殿御吟味なされ候処、播磨国太之木重左衛門と申す者商に参り居る者取立申候て諸役免許等の次第、材木町古来書に出る」とある。


材木町
ざいもくちよう

中京区東木屋町通四条上ル三丁目

南北に通る先斗町ぽんとちよう通と高瀬たかせ川の間、三条南一筋目より南に位置。

町名は、筆描図系では寛文後期洛中洛外之絵図に「材木町」とみえる。木版図系では寛永版平安城東西南北町並之図は「(こり木町)」とし、寛文五年(一六六五)刊「京雀」は「(木や町)二町め」、元禄九年(一六九六)京大絵図は「小刀(丁)」としているが、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」、天保二年(一八三一)改正京町絵図細見大成は「材木丁」としている。美濃屋町北村伝兵衛家文書によると、二条から五条までの高瀬川筋の町屋は「町裏」とよばれ、東組西組に区分され、西組の二二町は、上組八町、下組一四町に分れており、当町は上組であった。


材木町
ざいもくちよう

[現在地名]伊丹市伊丹三丁目・中央ちゆうおう六丁目

伊丹町を構成する二七ヵ町の一つ。中之なかの町の南に位置し、ほん町筋を挟んだ両側町。文禄伊丹之図にみえる。明和六年(一七六九)頃住友抱え屋敷があった(「家屋鋪絵図」住友史料館蔵)。天明六年(一七八六)には津国屋勘三郎・綛屋与右衛門・紙屋与作ら有力な江戸積み酒造家六人が居住(「酒造家名前覚」小西家文書)


材木町
ざいもくちよう

[現在地名]富山市室町通りむろまちどおり一丁目・堤町通りつつみちようどおり二丁目

上金屋かみかなや町の西に続き、東西に延びる両側町。西は鍛冶かじ町。西端を北に折れると古国府勝興ふるこしようこう寺通坊門前、南に折れると五番ごばん町東端に至る。本町のうち。寛文六年(一六六六)の御調理富山絵図にみえ、前田利次による町割当初からの町。安永八年(一七七九)の本家数一五・貸家数三三で、二丁目まであった(「町方旧記抜書」前田家文書)


材木町
ざいもくちよう

下京区木屋町通松原下ル

ほぼ南北に通る木屋町きやまち通に西面する片側町で、東側はかも川、西側は高瀬たかせ川が流れる。

平安京では京域外で、崇親すうしん院領となっていた。

寛文九年(一六六九)、一〇年にかけての鴨川新堤建設以後、畑地を開発して町地とされた。寛文一二年洛中洛外大図に「材木丁」とあり、以後変更はない。町名は、慶長年間(一五九六―一六一五)角倉了以により高瀬川が開削されて後、高瀬川筋に船頭たちの住居・問屋・倉庫が建並んで町を形成したが、当町は材木問屋が多くあったためと思われる。


材木町
ざいもくまち

[現在地名]柳川市材木町

いで橋より沖端おきのはた川沿いに西へ続く通りに沿った片側町。西端は糀屋こうじや町の角。町人地。享保八年(一七二三)から同一一年の状況を示すとみられる柳川惣町図に町名はみえず、出橋前の角よりかに町境までの長さは二二間余、出橋いでのはし門より西の禅門ぜんもん堀に至る長さは一七三間余。


材木町
ざいもくまち

[現在地名]佐賀市材木一―二丁目

佐賀城の東、片田江七小路かたたえしちくうじ東田代ひがしたしろの間にあって、南北に流れる川の西側が材木町である。水運を利用して材木が取り扱われたが、嘉永七年(一八五四)の竈帳によると、実竈数は二九〇で、佐賀の町人町の中で最も規模が大きい。比較的多い職業は大工一五竈・木挽五竈・畳屋四竈など材木と関係のある職業が多く、ほかに米屋一〇竈・豆腐屋五竈・うどん屋四竈などがある。身分構成は町人が一〇八竈で全体の三七パーセントに相当し、ほかに手明鑓・徒士・足軽などの下級武士が多い。


材木町
ざいもくちよう

[現在地名]静岡市材木町

駿府城の北方、賤機しずはた山南端の西麓に位置し、南は片羽かたは町。町の北方東側に十分一材木蔵がある(以上、町方絵図)。「修訂駿河国新風土記」によれば当町は安西井宮あんざいいのみや村のうちで、延宝年間(一六七三―八一)には井宮町とよばれた。貞享三年(一六八六)の時之鐘鋳直集銭帳(県立中央図書館所蔵文書)によると、家数は丁頭家一・本家三四・借家三。


材木町
ざいもくちよう

[現在地名]館林市仲町なかまち

館林城下の西端付近に位置し、北西に木挽こびき町、東にたつ町が接する。材木問屋や材木商の住んでいた町といわれる。延宝二年(一六七四)の城下町図に町名がみえる。「館林記」によると、萱葺家五六、男一一〇・女八五、馬八。延宝九年頃には当町内にも木挽職四人が住み、その年職役は四〇人と定められていた(「館林町先規之次第覚書」館林市立図書館旧蔵)


材木町
ざいもくまち

[現在地名]熱田区白鳥しろとり

南のよし町境から北のかけ町境まで、町の長さ一一七間。町並ができた年代は不詳(徇行記)。小字に中島なかしまがあった。


材木町
ざいもくまち

[現在地名]大和郡山市材木町

天正一六年(一五八八)の郡山惣町分日記(春岳院文書)にみえる内町(箱本)一三町の一つ。


材木町
ざいもくちよう

[現在地名]大津市中央ちゆうおう四丁目

伊勢屋いせや町の東に続くなか町通の両側町。材木の集散地小舟入こぶないり堀が近くにあり、材木商人が多く集住していたという。元禄八年(一六九五)当時酒造家が三軒あったという(大津市志)


材木町
ざいもくちよう

[現在地名]小松市材木町

東は細工さいく町、西はなか町に挟まれた南北通りで、長さ二町一八間・幅二間(皇国地誌)。初め中町に所属していた散町で、寛文八年(一六六八)の大火の折、焼けた町名のうちにすでに材木町の名がみえるが、これは通称である(小松旧記)


材木町
ざいもくちよう

[現在地名]釧路市材木町・貝塚かいづか一―四丁目

昭和七年(一九三二)に設置された町名。もと貝塚町・緑ヶ岡みどりがおか城山しろやま町の各一部、および釧路村の一部(モシリヤ)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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