小白川村
こじらかわむら
[現在地名]山形市小白川町・小白川町一―五丁目・あこや町・あこや町一―三丁目・あさひ町・東原町・東原町一―四丁目・七日町一―五丁目・松波二―三丁目・緑町一―四丁目・上町一―五丁目・立道・土樋・東山形一丁目・清住町一―二丁目・平久保・砂塚
前田村の北東、山形城下の東に接し、馬見ヶ崎川沿岸平地に立地。小白河とも書く。西光寺蔵の享禄三年(一五三〇)二月一五日の年紀をもつ太鼓銘に「檀那成沢義清」とみえ、当地を成沢義清が領していたとみられる。最上義光が山形城に入る以前は馬見ヶ崎川の北岸に集落があった。義光が慶長年間(一五九六―一六一五)山形城の大改築にあたり、馬見ヶ崎川上流の宝沢の河原の石を石垣用として運ぶため城下へ直線の新道を開き、仙台への街道(笹谷街道)とした。
小白川村
こじらかわむら
[現在地名]白川村小白川
庄川左岸にあり、南の椿原村から白川街道が通ずる。集落は支流境川とに挟まれた河岸段丘上に位置する。白川郷の最北端にあり、東方対岸は越中国楮村(現富山県東礪波郡上平村)、北方は同国西赤尾村(現同上)。村名は村内を境川・加須良川が流れ、平瀬村の大白川に対して小白川と称したことによる(斐太後風土記)。天正一六年(一五八八)、中野(現荘川村)にあった照蓮寺は金森長近の城下経営に伴って高山に移転するが、このときの条件の一つとして「小白川」のうち一貫文などが寄進された(同一五年八月四日「石徹白長澄寄進状」石徹白徳郎文書)。
金森氏時代の高は二五石余(飛騨国中案内)。元禄飛騨国検地反歩帳の高は一九石余、田一町一反余・畑四町五反余。
小白川村
こじらかわむら
[現在地名]飯豊町小白川
松原村の対岸西方、白川左岸に位置する。南東流して当地で白川に注ぐ小白川の流域を村域とする。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「六くわん文 小白川」とみえる。同二二年の晴宗公采地下賜録では「てのこの内、こしらかハ」とあり、遠藤上野守に安堵された。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高八五七石余、免四ツ一分、家数三八(うち役家一五、肝煎・小走三)・人数一六八。役木として漆・桑をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は中、修正前の高は九三四石余。寛永八年分限帳によると当村に給地のある家臣八。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 