白川村(読み)しらかわむら

日本歴史地名大系 「白川村」の解説

白川村
しらかわむら

[現在地名]左京区北白川きたしらかわ伊織いおり町・岩坂いわさか町・瓜生山うりゆうざん町・追分おいわけ町・小倉おくら町・重石かさねいし町・上池田かみいけだ町・上終かみはて町・上別当かみべつとう町・清沢口きよさわぐち町・久保田くぼた町・小亀谷こがめだに町・地蔵谷じぞうだに町・仕伏しぶせ町・下池田しもいけだ町・下別当しもべつとう町・うち町・大堂だいどう町・つた町・どうまえ町・外山とやま町・中山なかやま町・西伊織にしいおり町・西瀬にしせうち町・西蔦にしつた町・西平井にしひらい町・西町にしまち東伊織ひがしいおり町・東小倉ひがしおぐら町・東久保田ひがしくぼた町・東瀬ひがしせうち町・東蔦ひがしつた町・東平井ひがしひらい町・平井ひらい町・琵琶びわ町・別当べつとう町・丸山まるやま町・みなみはら町・むこうだに町・山田やまだ町・やまもと町・よもぎだに町〉

浄土寺じようどじ村の北にあたり、如意によいたけ北麓の白川山を背に開けた北白川谷口扇状地の傾斜段丘に位置する。村の中を東から南西に、山中越やまなかごえ沿いに白川が流れる。「和名抄」記載の上粟田かみあわた郷の地で、「山城名勝志」によれば白川より北を北白川、南を南白川と称した。「鈴鹿家記」明徳二年(一三九一)一一月二六日に、白川・浄土寺の人々が吉田社神人と闘うとあり、この頃既に集落は成立していたようだ。

この地より近江志賀しが里や唐橋からはし・坂本に至る志賀の山越(山中越)や白川の景趣は古来歌に詠まれて名高い(→白川

白川村
しらかわむら

[現在地名]須磨区白川・白川台しらかわだい一―三丁目・同五―七丁目・北落合きたおちあい一―二丁目・同四―六丁目・東白川台ひがししらかわだい一丁目・同四丁目

六甲ろつこう山地西部、川上流の山間に位置し、南はくるま村、西は播磨国明石郡。白河とも書き、白川しらかわ(白河)はたともいった。正和四年(一三一五)一二月五日の兵庫下庄白河車造両畑田畠数惣目録(藤田文書)によると、白河畑分は田数五町二反余・畠数一丁五反余で、介名・又六名・惣九郎名・惣八名・蓮善房名・藤内名の六名があった。貞和四年(一三四八)九月日の長田社供物注文(大中文書)によると、白河畑は隣接の車畑とともに延慶二年(一三〇九)には薪一二荷・松三荷・稲一束三把・山折敷二・栗一斗・柿一斗・紙袋(白米三升入)一を納めていたが、康永元年(一三四二)の飢饉で両畑からの供物は減少するようになっていた。応永二年(一三九五)二月晦日の僧教尊田畠譲状をはじめとして、戦国時代に至るまでの田畠売買・譲与に関する文書が当地藤田家に多数残っている。そのうち応永二六年三月三日の白川惣中田地売券によると、白川畑惣中として四〇苅の田地を地下の平次郎四郎へ四貫五〇〇文で売却した際、惣中売主として道金ほか六名が署判を加えており、当時白川畑に惣が存在していた。

白川村
しらかわむら

面積:三五八・四五平方キロ

大野郡の西部に位置し、東は清見きよみ村・吉城よしき河合かわい村、南は荘川しようかわ村、西は白山連峰の尾根を境に石川県石川郡吉野谷よしのだに村・尾口おくち村・白峰しらみね村、北は富山県東礪波ひがしとなみ上平かみたいら村・平村・利賀とが村に接する。村域は急峻な渓谷をぬって北流するしよう川の上流沿いにあり、南北に長い矩形をなす。大家族制で知られた合掌造家屋を今に残す特色ある風土をもった地域で、かつては白川郷とよばれ、南部の中切なかぎり荻町おぎまち鳩谷はとがや飯島いいじまなど中央部の大郷だいごう、以北の山家やまがと三地区に分れる。総面積の九五パーセントを森林が占める山間地で、標高二七〇二・二メートルの御前ごぜん峰を最高峰とする白山一帯は白山国立公園に指定されている。庄川沿いに国道一五六号が南北に縦貫し、荻町から天生あもう峠を越えて河合村に至る国道三六〇号、馬狩まがりから三方岩さんぼういわ岳中腹を越えて石川県に至る白山スーパー林道がある。

白川村
しらかわむら

[現在地名]宇治市白川〈一本松いつぽんまつ植田うえだ牛岩うしいわ打破うちやぶり栢尾かやお川下かわしも川上かわのぼだにきじたに笹原ささはら三西原さんざいはら山王さんのうたに娑婆山しやばやま上明じようみようどうやま中ノ薗なかのその鍋倉山なべくらやま端爪はしづめ東山ひがしやま水落山みずおちやまみやみやまえ門口もんぐち山本やまもと

宇治郷南方、宇治川左岸に位置し、宇治川の支流白川およびてら川に沿う小盆地と、その周辺の低丘陵を村域とする。集落は白川に沿って南北に連なり、茶を主要産物とする農業が多い。村域北端の宇治川左岸には、白川浜とよぶ小集落があり、物資出入の河港であった。

伝えによれば、一二世紀初頭に藤原頼通の娘寛子が、この地に金色こんじき院を造立したのに伴い開村したというが、古代、宇治から宇治田原うじたわら(現綴喜郡宇治田原町)への道がこの盆地を通っていたと考えられるから、この地の開拓はさらにさかのぼるとみられる。

白川村
しらかわむら

[現在地名]箕郷町白川

和田山わだやま村の南にある。現箕郷町南端に位置し、標高は町内で最も低い一二〇メートル前後。村の東境を白川が南流し、川沿いの平地に南から竹の鼻たけのはな田谷たや宿しゆく山口やまぐちと集落が続く。西方は丘陵地で、山口とだいの台地を挟んでの川・あいの川が南流して合流する。また田谷からつじに通ずる道が西に延びる。低地はおもに水田、台地は畑・桑畑。辻と山口の間の台地上で縄文期の石斧などが出土した。また古墳の跡があり、地中から土器や土製の勾玉が木炭とともに出土した。土器は櫛形の波状文のある弥生式後期の樽式土器。天正四年(一五七六)一一月二〇日、「自旧規拘来御家人并百姓等之屋敷」を除く「白川郷」一六一俵七升三合が大井小右兵衛尉に宛行われており(「武田家定書」岡本文書など)、同八年には竹木の伐採が禁止されている(同年正月一二日「武田家定書写」武州文書)

白川村
しらがわむら

[現在地名]氷見市白川

東は宇波うなみ村、西は五十谷いかだん村と角間かくま村に接し、村中央部を五十谷川が灌漑溜池仲直なかなおの大池からの流れを集めて東へ流れる。戸津宮とつみや村から南流する宇波川は八代仙はつたいせん川ともいわれた。延文四年(一三五九)一一月日の得田章親代大隅貞章軍忠状(遺編類纂所収得田文書)によれば、同年七月一八日に長坂ながさか口から越中に侵入した能登の吉見刑部少輔は白河城を落し、閣間かくま(角間)へ向かっている。文禄四年(一五九五)の氷見庄加納村等指出写(加越能文庫)に、「高七百五拾四表壱升三合 うなミ組 白河村 同御山銭五貫五百文」とある。正保郷帳では高四一九石余、田方九町三反余・畑方一八町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高四四五石・免五ツ八歩、小物成は山役三八〇匁・蝋役一八匁(三箇国高物成帳)。山役三八〇匁は加納組内では三番目に高い。明暦二年(一六五六)の加納組高覚帳(円仏家文書)では百姓四三・頭振四。

白川村
しらかわむら

[現在地名]白水村白川

白川が南側を西流し、東は色見しきみ(現高森町)、西は吉田新よしだしん町、南は市下いちした村・竹崎たけざき村に接する。「肥後国風土記」逸文に、阿蘇山頂の火口沼が「時々水満、従南溢流、入于白川、衆魚酔死、土人号苦水」とあり、当村は白川の水源にあたる。弘安元年(一二七八)一〇月一七日の成阿譲状(阿蘇家文書)によると、文永八年(一二七一)以前に堀河大納言源定房の孫家定(成阿)が「色見・山鳥・吉田・白川四村、永田」の地頭職を嫡子為定に譲与しており、さらに弘安元年に至って親への孝養を欠き、言うことも聞かなかったという理由で悔返し、「おとゝ」に譲り渡している。

白川村
しらかわむら

[現在地名]香北町白川

現香北町の西端、物部ものべ川北岸に位置する。東は五百蔵いおろい村、西は佐竹さだけ(現土佐山田町)。河岸段丘上の下白川したしらかわと山腹斜面の上白川うえしらかわに分れ、北方の赤塚あかつか(八五〇メートル)暁霞ぎようか山ともよび、姿・眺望がよい。

戦国時代この地にあった森田弾正忠包良は、長岡郡本山もとやま(現本山町)を本拠とした本山氏に一時期仕えたが、その敗退の折に長宗我部氏に服した。その子与兵衛範由は長宗我部氏の四国遠征に従軍、「元親記」には与州美間の陣に白川与兵衛として登場する。

白川村
しらかわむら

[現在地名]藤岡町白川

木瀬きせ川の上流域で、町域の北端にある。縄文時代の林越はやしのこし遺跡・たいラ遺跡がある。字みやの三ノ宮一号墳は円墳で石室はない。字宮脇みやわきには宝篋印塔が二基あり、字やまかみ向道むかいみちにも宝篋印塔が各一基ある。寛永一二年(一六三五)時には岡崎藩領、宝暦一三年(一七六三)幕府領、明和七年(一七七〇)西尾藩領となり明治まで続く。宝暦一一年には白川村と柿野かきの(現岐阜県)三国みくに山をめぐって境争論を起こしている(藤岡村誌)

村は洞・郷・下の三つの島からなり、創建年不明の八柱神社において、第二次世界大戦前まで島ごとや若い衆による献馬が奉納された。

白川村
しらかわむら

[現在地名]上北山村大字白川

北山川流域、高戸屋たかのとや(六〇五・四メートル)東南麓に位置する。神河三村こうのがわさんそんのうちに成立した村。慶長郷帳には村高九四五・一九七石の「北山村」のうちに含まれる。村名は寛永郷帳に初めて現れ、村高七四・九五石、幕府領。のち延宝検地により村高は一二〇・四七五石となった。

元禄一一年(一六九八)三月付代官宛の和州吉野郡北山白川村という帳に、当村の枝村として、ひつを(高二・三九六石、親村より北に当、道法八丁)高瀬たかせ(高三・四二二石、親村より寅に当、道法五丁)とが(高八・八五七石、親村より申に当、道法六丁)野平のひら芦瀬あしのせ(高一六・五九四石、親村より南に当、道法一八丁)小代こだい(高二〇・〇〇五石、親村より南に当、道法一里一〇丁)大塚おおつか(高一〇・〇〇三石、親村より辰に当、道法二里)古川ふるかわ(高一・八八三石、親村より東に当、二里半)がみえる。

白川村
しらかわむら

[現在地名]金峰町白川

浦之名うらのみよう村の南、万之瀬まのせ川の支流長谷ながたに川流域に位置する。中世は白河村・白河浦とみえる。弘安六年(一二八三)一一月二二日、僧明賀は白河浦の水田・畠地・園を阿多あた観音寺院主職とともに琳厳へ譲っている(「僧明賀譲状案」二階堂文書)。建武四年(一三三七)一〇月一五日には僧俊忠が観音寺領白河浦の田畠・在家などを孫子鮫島千代王丸へ譲っている(「僧俊忠譲状案」同文書)。明賀・俊忠ともに加世田の在地領主別府氏の出身であり(指宿系図)、鎌倉時代には当地は別府氏出自の観音寺院主が支配していたと考えられる。貞治五年(一三六六)には白河村は闕所地となり、島津師久によって二階堂隠岐守(直行)に宛行われた(同年八月二三日「島津師久書下」二階堂文書)

白川村
しらがむら

[現在地名]桜井市大字白河しらが

長谷寺の西方、初瀬山の南中腹に立地する山村。「帝王編年記」に清寧天皇宮跡を注して「大和国十市郡白香谷しらがだに是也」(「庁中漫録」所収の「和州志」には式上郡とあり)とみえる。シラガは白髪しらが部関係の地名か。同部は清寧天皇(白髪武広国押稚日本根子命)子代こしろとして設定、延暦四年(七八五)光仁天皇の諱(白壁)を避け真壁と改字した(続日本紀)。「経覚私要鈔」宝徳三年(一四五一)一一月三日条には「可被焼払在所事、石築地之外在家并白河郷」、同一九日条に「次白河里二手作押寄焼払了」と記す。

白川村
しらかわむら

[現在地名]松本市寿 白川

牛伏うしぶせ川のつくる扇状地の上に発達した西斜面の村で、中世には白川郷といわれた。「吾妻鏡」の文治二年(一一八六)三月一二日条に年貢未済の荘園として白川郷の名がある。また元応元年(一三一九)の鎌倉幕府の下知状によると白河十郎有忠が白川郷の地頭であったことがわかる。白川郷は当時諏訪社上社の御射山頭役を勤め、元応元年に隣郷の竹渕郷にその手伝いを命じたところ、竹渕の地頭竹渕四郎泰経・弥七郎家経らとの争いになり、白河有忠が幕府に訴え、幕府は泰経らに手伝うことを命じた(守矢文書)

白川村
しらかわむら

[現在地名]飯豊町白川

下屋地しもやち村の西、白川左岸にあり、越後街道の脇道が通る。天文二二年(一五五三)晴宗公采地下賜録中津川なかつがわのうちとして「白川在け一けん」とみえ、中津川三郎四郎に安堵されている。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高一八七石余、免三ツ四分、家数一一(うち役家一・肝煎一)・人数四六。寛永八年分限帳によると家臣矢野与兵衛の給地があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「白川村」の意味・わかりやすい解説

白川〔村〕
しらかわ

岐阜県北西部,庄川流域にある村。白川郷の一部をなす。北で富山県,西で石川県に接する。村域の大部分が山林原野で,1961年南部に御母衣ダムが建設され,国道156号線が整備されてから,急速に変容した。大家族制度の名残りをとどめる合掌造の民家やスキー場,白山のブナ林,人造湖などがあって観光客も多い。白川郷の代表的な合掌造の民家である旧遠山家住宅は国の重要文化財に指定されている。村域の一部は白山国立公園天生県立自然公園に属する。国道156号線,360号線が通り,東海北陸自動車道インターチェンジがある。面積 356.64km2。人口 1511(2020)。

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事典 日本の地域遺産 「白川村」の解説

白川村

(岐阜県大野郡白川村)
日本で最も美しい村」指定の地域遺産。
白川村は岐阜県北西部に位置する、急峻な山々に囲まれた農山村。面積356.55k【m2】、うち95.7%を山林が占める。白山国立公園、天生県立自然公園などがある。日本有数の豪雪地帯で冬期交通が閉ざされていたため、かつては秘境といわれていた

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

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