小脇郷(読み)おわきごう

日本歴史地名大系 「小脇郷」の解説

小脇郷
おわきごう

箕作みつくり山の南麓に広がる中・近世の郷。蒲生がもう野の一画に位置し、佐々木氏を開発領主とする延暦寺領佐々木ささき庄に属したと考えられる。宇多源氏の源成頼が近江土着、その子兵庫助経方は佐々木庄小脇の地に小脇楯と称する館を営んだという。小脇の開発は佐々木氏によって本格的に着手されることになった。この地域の開発にこま(高麗井)が重要な意味をもっている。蒲生野はもちろん古代における野の開発は、渡来人系の勢力と技術に負うところが大きい。小脇には高麗(古麻・狛)長者の護持仏を祀った金柱かなばしら宮が所在し、その子孫が居住していたと考えられており、狛井は渡来人系の高麗長者とその集団が開削したと伝承される。また「蒲生郡志」は、佐々木氏家臣で高麗長者の子孫にあたる狛氏が着工したと推定している。狛井の伝承からみるかぎり当郷の開発は八、九世紀にもさかのぼる可能性は残るものの、平安期の状況をも含め未詳

当郷は伊勢へ向かう千草ちぐさ越・八風はつぷう街道の要衝に位置し、また土山つちやま(現甲賀郡土山町)から東山道愛知川えちがわ(現愛知郡愛知川町)への通路にあたる。建久元年(一一九〇)一二月一四日、源頼朝の一行が鎌倉に帰る途次「小脇宿」に泊まっている(吾妻鏡)。この時期鎌倉幕府の政策下で古代の駅家にかわり新たな宿駅が多数設置されており、小脇宿もその一環として新設されたものであろうか。奈良西大寺の僧叡尊は弘長二年(一二六二)二月七日鎌倉下向の途中、「蒲生野宿」で中食をとった(関東往還記)。また「実暁記」に記載された東山道宿駅のなかにも蒲生野がもうの宿の名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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