浜野村(読み)はまのむら

日本歴史地名大系 「浜野村」の解説

浜野村
はまのむら

[現在地名]八日市市浜野町・松尾町まつおちよう東浜町ひがしはまちよう本町ほんまち・八日市町・上之町かみのちよう

八日市村の北にあり、神崎郡に属する。集落は中央部を南北に走る御代参ごだいさん街道に沿って街村状に形成され、南から順に市口いちぐち町・中之なかの町・北之きたの町の名称をもつ。八日市庭の北部を占め、西方松尾社前付近まで市場が延びていた。村は北西部の湿地帯を除いておおむね台地にあるが、吉田よしだ井を利用して、近世には耕地の多くは水田化されていた。天正一三年(一五八五)閏八月の山内一豊知行目録(山内家文書)では南郡建部たけべの内として村名がみえ、三四五石余。同年羽柴(豊臣)秀次の八幡山(現近江八幡市)入封に伴って神崎郡上中かみなか村・下野しもの村などとともに秀次宿老山内一豊の領地となり、豊臣秀吉蔵入地に編入される天正一八年まで同領。

浜野村
はまのむら

[現在地名]岡山市浜野一―四丁目・豊浜町とよはまちよう富浜町とみはまちよう新福しんぷく一―二丁目

旭川の右岸にあり、対岸は平井ひらい村。西は十日市とおかいち村、南は福富ふくとみ村、北は七日市なのかいち村。南北朝の頃、この地に南朝方の武将多田頼貞が居住、日蓮宗松寿しようじゆ寺は頼貞の屋敷跡と伝える(備陽国誌)。寛永備前国絵図に村名がみえ、高一千六三石余。「備陽記」によると田畑六八町一反余、家数一三五・人数七九四。「備陽記」「藩法集」によると岡山藩が明暦三年(一六五七)以前に設置した二六加子浦の一つで小猟船一七を有する。「備陽国誌」は漁の盛んな村の一つにあげ、また蜆は名産の一つ。

浜野村
はまのむら

[現在地名]中央区浜野町

南生実みなみおゆみ村の西にあり、西は江戸湾に臨み、房総往還が南北に通る。近世浜野湊が営まれ、地内に西浜津先にしはまつさき・東浜津先・下傍示津しもぼうじつ・上傍示津の小地名があった。中世には浜村などとみえる。寛永四年(一六二七)幕府領から生実藩領となり、同五年の小弓領郷帳に浜村とみえ、田五二四石余・畑二〇四石余。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高七三八石余で、同藩領と地内本行寺領。元禄五年新田、同一三年新屋敷の検地があり、安永四年(一七七五)には田五四町五反余・畑二七町七反余(初芝家文書)。明和七年(一七七〇)・同八年の旱魃に対し同九年三反余を潰地とする溝を普請、安永二年に完成、用地代金、人足延べ五〇〇人の公用なみの日当などを要求したが、潰地の年貢用捨のみが認められた(同文書)

浜野村
はまのむら

[現在地名]大東町浜野

きく(国安川)の右岸、竜今寺りゆうごんじ川左岸に位置し、東は浜川はまかわ新田村、南は海(遠州灘)に続く砂丘地帯。天文二〇年(一五五一)一二月二三日の今川義元判物(写、諸家文書纂所収興津文書)は、村岡むらおか西方のうち「浜野村後之砂地」をめぐって、西方の領有者興津信家と東方の斎藤六郎衛門との間で起きた相論を裁許し、もともと東西両郷に分ち置いており、砂地を開発した田畠は興津・斎藤で兼有するよう命じている。

浜野村
はまのむら

[現在地名]伊南村浜野

落合おちあい村の北東、伊南川左岸の河岸段丘上に位置する。ここから河谷が幅およそ五〇〇―一〇〇〇メートルに広がり、氾濫原を形成する。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「浜野 八十七石九斗五升」とある。慶長二年(一五九七)の藤三郎倉入在々高物成帳(福島県史)でも同高で、免四ツ一分。寛文五年(一六六五)の伊南郷村々改帳(馬場家文書)によると高一〇〇石余、免三ツで年貢は金納。田一町三反・畑一五町三反余。小役として綿役・糠藁役・布役・川役などが課され、産業として養蚕(産高金三両ほど)・瀑布織(同八両ほど)・麻(同二〇両ほど)があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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