日本歴史地名大系 「小船越村」の解説 小船越村こふなこしむら 宮城県:桃生郡河北町小船越村[現在地名]河北町小船越南東流して石巻(いしのまき)湾に注ぐ北上川の北岸、追波(おつぱ)川の西岸に位置。一関(いちのせき)街道が通る。川(かわ)ノ上(かみ)・後谷地(うしろやち)・沢田(さわだ)・鶴家(つるが)・五十五人(ごじゆうごにん)・舟渡(ふなと)などの集落が散在する。正保郷帳では田九貫七七二文・畑三貫八六一文で水損・旱損と注され、ほかに新田二貫三五九文。桃生郡北方二〇ヵ村大肝入支配下の村で、「封内風土記」では戸数二一〇、歩卒一二〇、人数七二九、馬八五。 小船越村こふなこしむら 長崎県:下県郡美津島町小船越村[現在地名]美津島町小船越大山(おやま)村の北東、東浅海(ひがしあそう)の北部にあり、内浅海との間の細い地峡部に立地する。古来より船を引いて丘越えをしたことを示す地名であるが、中世は同様の大船越(おおふなこし)よりも交通の要所として重視され、史料上はたんに船越ともよばれた。「津島紀略」では古布奈古志と訓じる。「郡方毎日記」寛永一五年(一六三八)条に「舟こし」とみえる。寛文二年(一六六二)の検地帳に与良(よら)郡船越村とあり、高八石余。貞享三年(一六八六)の神社誌には三所(さんしよ)権現・天神・志賀(しか)大明神・八之(はちの)王が記される。元禄一六年(一七〇三)の対州郷村帳では与良郷船越村として田畠木庭物成二一石余、家数二三・社一・寺一、人数二〇二・給人一・公役人一三・肝入一・猟師六、牛一〇、船八で、寺は禅宗梅林(ばいりん)寺(現曹洞宗)。 小船越村おぶなこしむら 長崎県:諫早市小船越村[現在地名]諫早市小船越町・貝津小船越名(かいづおぶなこしみよう)・白岩町(しらいわまち)・堂崎町(どうざきまち)・中尾町(なかおまち)・山川町(やまかわまち)・馬渡町(まわたりまち)貝津村の北東に位置し、南西を東大(ひがしおお)川が流れる。北東に御館(みたち)山がある。長崎路が通る(慶安二年肥前国道法帳)。近世は諫早郷に属し、はじめ肥前佐賀藩親類同格の諫早家領であったが、元和七年(一六二一)に佐賀本藩に上知されたうちの一村とされる。正保国絵図に「小船越村」とみえ、高二六五石余。寛文四年(一六六四)の鍋島光茂領知目録(寛文朱印留)では小舟越村とあり、元禄国絵図でも高二六五石余。享和三年(一八〇三)の郡村仮名付帳ではヲブナコシとする。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by