小花冬吉(読み)オバナ フユキチ

20世紀日本人名事典 「小花冬吉」の解説

小花 冬吉
オバナ フユキチ

明治〜昭和期の製鉄技師,鉱業教育家 秋田鉱山専門学校校長



生年
安政3年10月3日(1856年)

没年
昭和9(1934)年3月8日

出生地
江戸・小石川

学歴〔年〕
工部大学校(現・東京大学工学部)冶金科〔明治12年〕卒

学位〔年〕
工学博士

経歴
父・作助は旧幕府の役人で、のち小笠原島初代島司を務めた。フランス留学後、工部省、広島県の技師となり、中国地方の古来からの砂鉄製錬法の近代化に尽力。のち農商務技師、秋田鉱山監督局長などを経て、明治29年官営八幡製鉄所の初代製銑部長に就任、創業期の同所高炉技術部門を担当した。35年退任するが、再び農商務技師として鉱業法立案などにあたり、43年秋田鉱山専門学校(現・秋田大学鉱山学部)初代校長に就任、後進の育成に努めた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「小花冬吉」の意味・わかりやすい解説

小花冬吉
おばなふゆきち
(1856―1934)

製鉄技術者、鉱業教育家。工学博士。旧幕府の役人であった父作助(1829―1901。のちに小笠原(おがさわら)島初代島司)の子として江戸に生まれる。1879年(明治12)工部大学校(現、東京大学工学部)冶金(やきん)科を卒業、フランス留学から帰国後、工部省、また広島県の技師として、中国地方における古来の砂鉄製錬法の近代化に尽くし、のち農商務技師、秋田鉱山監督局長などを経て、1896年官営八幡製鉄所(やはたせいてつしょ)に転じ、初代製銑部長として創業期の同所高炉技術部門を担当した。1902年(明治35)その技術的不良の責任をとって退任、ふたたび農商務技師として鉱業法の立案などにあたり、1910年秋田鉱山専門学校(現、秋田大学工学資源学部)設立とともに校長に就任、鉱業技術者の育成に努めた。

[飯田賢一]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小花冬吉」の解説

小花冬吉 おばな-ふゆきち

1856-1934 明治-大正時代の製鉄技術者,教育者
安政3年1月10日生まれ。小花作助の子。イギリス冶金学をまなび,帰国後農商務技師,秋田鉱山監督署長などを歴任。のち八幡製鉄所にはいり,技師,製銑部長をつとめる。明治43年母校東京帝大の教授,同年秋田鉱専(現秋田大工学資源学部)の初代校長となった。昭和9年3月8日死去。79歳。江戸出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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