小諸城下
こもろじようか
浅間山の南西麓、千曲川の断崖上に構築された小諸城の東北に形成されており、東は蛇堀川、西北方はおおむね栃木川に限られて、東より与良町・荒町・本町・市町と続く。
〔城下の形成〕
小諸城下町の形成は、長享元年(一四八七)大井伊賀守光忠が鍋蓋城を現本町付近に築いた時に始まる。佐久に侵入した武田氏は天文二三年(一五五四)には「八月六日ニサクノカウリノ要カイ一夜ニ九ツヲチ申候、(中略)小室モ自ラヲチ申候」(勝山記)とあるように鍋蓋城を手に入れた。武田信玄は小諸を佐久・小県地方の鎮台とすべく、鍋蓋城をも取り入れ、田切地形を利用して本丸・二の丸・三の丸を構えた新城を築いた。信玄がここを重要な拠点と考えていたことは「上杉輝虎ノ兵ノ上野沼田ニ移ルトノ報ニヨリ、小諸城将小山田昌行等ヲシテ、佐久郡同心衆等ヲ集メ、城ノ警戒ヲ厳ニセシ」めたことでも知られる(小山田文書)。天正一八年(一五九〇)仙石氏が入城、慶長の末期頃までに城の大改修を行った。また城下町の建設と同時期に行われた北国脇往還の整備によって、宿場としての機能も果すことになった。
与良村・松井村・小諸村・宇当坂村・手城塚村など付近に散在していた村々の人戸が、しだいに往還沿いに集められ、小諸与良町・小諸本町・小諸市町となった。小諸与良町は与良村より出た与良町と、松井村より出た荒町とに分れており、城下町としては一町を形成しながら例えば元禄一六年(一七〇三)の牧野康重新知郷村引渡証文(牧野一郎氏蔵)などの領知関係文書では「与良・松井」と記されている。
仙石氏二代(五万石)に続いて、元禄一五年までの間に徳川忠良(六万石)・松平憲長(五万五千石)・青山氏(三万石)・酒井氏(三万石)・西尾氏(二万七千石)・石川氏(二万石)が交代在城、元禄一六年牧野氏(一万五千石)が入城して一〇代にわたり廃藩に至る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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