明治前半期の陸軍軍事機構の名称。1868年(明治1)5月20日,明治新政府は江戸鎮台を置き,旧幕府の奉行所を引き継ぎ大総督有栖川宮熾仁(たるひと)親王の管轄とし,軍政を布かせた。7月17日に鎮台を廃して鎮将府とし,鎮将に三条実美を任じて民政に移行させ駿河以東13国を管理させたが,10月18日鎮将府を廃して行政官に移管した。
軍事機構としての鎮台は1871年4月23日,東山道(本営石巻),西海道(本営小倉)の両鎮台を置き,各藩兵を差し出させて兵部省の管轄としたことに始まり,8月20日に東京,大阪,鎮西(小倉),東北(仙台)の4鎮台と各鎮台管下に1ないし3の分営を置いた。徴兵令制定にともない,73年1月9日6管区鎮台表が定められ,東京,仙台,名古屋,大阪,広島,熊本の各鎮台に14営所を設け,歩兵各1連隊を各営所に置き,その平時兵力3万1680人と定められた。この年東京鎮台で初めて徴兵が行われ,翌年大阪,名古屋,75年に6鎮台全部で徴兵が行われ,西南戦争当時には鎮台兵の大部分は徴兵に入れかわっていた。1872年3月,東京鎮台条例および大阪・鎮西・東北鎮台条例が定められ,翌年7月,2条例を統合して新しい鎮台条例に改正された。条例は各鎮台を軍管とし制度未定の北海道を第7軍管とし,14営所を各師管とし,鎮台司令官は陸軍卿に直隷し,管内の静謐(せいひつ)を保護し,外敵の防御に当たり,草賊に備えることを任とした。79年の条例改正で鎮台司令官は少将で有事の際は旅団長となり,鎮台が所属する監軍中将の師団長の指揮下に入ることになった。84年5月7軍管配備表が定められ(第7軍管欠),各鎮台は歩兵2旅団4連隊,騎兵・砲兵各1連隊,工兵・輜重(しちよう)兵各1大隊の編制とされ(この基本編制はそのまま師団に移行し,1936年5月まで変わらなかった),翌85年5月鎮台司令官は同時に師団長を兼ね,86年5月鎮台制は廃されて師団制に移行した。
執筆者:大江 志乃夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
(1)明治維新当初、幕府直轄領および主要地に置かれた行政官衙(かんが)。1868年(慶応4)1月、大和(やまと)、兵庫、大坂の各鎮台が置かれたが、すぐに裁判所に改称され、同年江戸鎮台も置かれたが、これも7月に廃止されて鎮将府にかわった。(2)明治初年の陸軍の編制上の最大の単位。1871年(明治4)4月、石巻(いしのまき)に東山道(とうさんどう)鎮台、小倉(こくら)に西海道鎮台を置くことが定められたが、実際に軍隊は編制されなかった。廃藩置県後の同年8月、この二鎮台を廃して、東京、大阪、鎮西(小倉、ただし当分熊本)、東北(石巻、ただし当分仙台)の四鎮台を設け、各藩から兵を徴して常備兵を置いた。73年1月、名古屋、広島の二鎮台が加わって六鎮台となり、近衛(このえ)とともに中央政府の常備軍を構成した。徴兵令の施行によって鎮台兵はしだいに壮兵から徴兵にかわり、西南戦争などに出動した。85年5月、鎮台の下に旅団が常設され、88年5月鎮台を廃止してこれを師団に改編した。
[藤原 彰]
1871年(明治4)から88年まで,治安維持・外敵防御を任務としておかれた明治前期陸軍の司令部,最大編制単位。71年の廃藩置県で東京・大阪・鎮西(熊本)・東北(仙台)の4カ所におかれた。徴兵令公布にともない,陸軍大輔山県有朋(やまがたありとも)の建議にもとづいて73年に全国を6軍管にわけ,東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の6鎮台をおいた。鎮台は軍管の司令部を意味し,その下の総計14の営所(師管)を統轄した。営所は平時に歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重(しちょう)兵を有し,戦時には各軍管から軍(旅団規模)を,各師管から師(連隊規模)を編制することになっていた。88年5月12日,師団司令部条例によって師団編制に改組され鎮台組織は廃止された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新