日本歴史地名大系 「小諸市」の解説 小諸市こもろし 面積:九四・〇一平方キロ県の東部、浅間山(二五四二メートル)南麓の西部一帯を占め、長野市・小県(ちいさがた)郡方面からの佐久平(さくだいら)への入口にあたる。南から大きく屈曲して西流する千曲川の西岸川辺(かわべ)区を除く東岸は浅間山の火山灰地帯である。小諸の名は嘉暦四年(一三二九)三月の鎌倉幕府下知状案(守矢文書)に御射山左頭役として「佐久郡小諸 小諸太郎」とあるのを初出とする。「小諸」の地は、「和名抄」に載る大村郷が現諸(もろ)地区に比定され、その辺りを小村とよんだものが転訛して村―室―諸となったものと考えられている(北佐久郡志)。「おむろ」(二木家記)、「小室」(勝山記)とも記された。〔原始〕縄文時代の遺跡は市の西北端の井子(いご)地籍の寺(てら)ノ浦(うら)石器時代住居跡(昭和八年国指定史跡)をはじめとして市中心部の加増(かます)・郷土(ごうど)などで竪穴式住居跡が発掘されており、そのほか上原(うわつぱら)・宮沢(みやざわ)・丸山(まるやま)・乗瀬(のりせ)などの傾斜地に同期の出土品がみられる。これに対して弥生時代の遺跡は比較的少なく、確認されているのは御影(みかげ)・谷地原(やちはら)・池の前(いけのまえ)・和田(わだ)・平原(ひらわら)・久保(くぼ)・氷(こおり)などで、市西部の氷を除けば南部の低平地である。古墳はほとんど円墳であるが、市南部の耳取大塚(みみとりおおつか)古墳を最大のものとして、諸・松井(まつい)・加増・平原・柏木(かしわぎ)などにも古墳群をみる。〔古代〕「和名抄」に載る佐久郡内七郷のうち、「大村」を中心に、「美理」「小沼」及び小県郡内「童女」の一部がおおむね現市域にあり、「延喜式」記載の「東山道」の道筋も浅間山南麓を通っていて「清水駅」は現諸と西原(にしはら)の中間にあったことがほぼ確かとなった。同じ「延喜式」左右馬寮にみえる信濃国の御牧の「塩野牧」と信濃最大の官牧望月牧の一部や、「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条にみえる左馬寮領「菱野」牧も市域に比定されている。〔中世〕「吾妻鏡」によれば文治二年の時点で佐久郡内には既に八条院領の大井庄があったことを知るが、その範囲が市域に及んでいたかどうかは明らかでない。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小諸市」の意味・わかりやすい解説 小諸〔市〕こもろ 長野県東部,佐久盆地北部を占める市。 1954年三岡村,南大井村,小諸町が合体して市制。中心市街地は浅間山の泥流の末端にあり,江戸時代には牧野氏1万 5000石の城下町で,北国街道の宿場町,佐久甲州街道の分岐点でもあり,信濃でも有数の商業中心地であった。昭和初期までは製糸業の町でもあったが,近年は機械,食品などの工場が進出している。北東部の浅間山の斜面ではブロッコリー,レタスなどの高原野菜,果樹の栽培が発達。北東方に浅間山や軽井沢町を控えて観光客も多く,標高 1000m前後の地帯には別荘地や林間学校などが設けられている。市街地西部の千曲川断崖上にある小諸城跡の懐古園は,島崎藤村の『千曲川旅情の歌』によって知られる。重要文化財の旧小諸本陣,史跡の寺ノ浦石器時代住居跡,天然記念物テングノムギメシ (天狗の麦飯)産地などがあり,釈尊寺をはじめ古刹も多い。 JR小海線,しなの鉄道,国道 18号線,141号線が通る。面積 98.55km2。人口 4万991(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by