小高御厨・小高庄・小高下御厨(読み)おたかのみくりや・おたかのしよう・おたかしものみくりや

日本歴史地名大系 の解説

小高御厨・小高庄・小高下御厨
おたかのみくりや・おたかのしよう・おたかしものみくりや

現掛川市東部にあった伊勢神宮領。小高郷ともみえる。平安末期から室町期にかけて所見。庄域は掛川市中心部の仁藤にとう葛川くずかわを中心として、北部の倉真くらみ初馬はつま、西部の下垂木しもたるき内の飛鳥あすかにも及んだが、山口やまぐち御厨や下西郷しもさいごうと入組んでいたらしく、正確にはわからない。仁藤の神明宮を小高御厨下郷の中心とする説がある一方(静岡県史)、「掛川誌稿」は仁藤村を下西郷の内とする。小高の遺称は五明ごみように鎮座する小高おだか神社に残るのみである。

〔小高御厨の成立〕

小高御厨の前身である小高庄は、伊勢守大江広経(質侶牧を立庄した遠江守大江公資の子)が「本主」から伝領したが、国判が得られず荒野となっていたところ、広経の子公仲が嘉保元年(一〇九四)春に藤原兼実(道長の曾孫)を本家に仰ぐ庄園として再興した。ところが公仲は同年一一月に隠岐島へ配流されることになり、翌年一月一〇日に娘仲子に小高庄の支配を託した(以上「大江公仲処分状案」金比羅神宮所蔵富田光美旧蔵文書)。保安二年(一一二一)三月五日、仲子は外宮権禰宜度会忠倫を口入人(仲介者)として小高庄を伊勢神宮に寄進し、ここに小高御厨が成立(天承元年一〇月二二日「小高厨上分米寄進状案」光明寺古文書)。以後忠倫の地位は、小高御厨口入神主職として権禰宜度会氏に相伝されていく(建長二年六月一五日「度会彦輔譲状案」・建武二年九月一五日「伊勢神宮祭主下文案」同古文書)

〔伊勢神宮領としての概要〕

天承元年(一一三一)前掲寄進状案と「神鳳鈔」によって御厨の概要をみよう。面積は三〇〇町で、内宮領の上郷と外宮領の下郷に分れていた。年貢は内宮分が上分六石と口入米三〇石、外宮分が上分六石と雑用米六〇石。天承の寄進状案では上分米六六石のうち六石が毎年三箇度御祭供祭料で、六〇石を一禰宜度会彦忠に納めることになっているが、これらはおのおの外宮分の上分と雑用米に相当する。建久三年(一一九二)八月日の伊勢神宮神領注文写(神宮雑書)では外宮分の雑用米が三〇石と半減しており、給主として「源侍従家・藤原顕季等」の名があるが、顕季は保安四年に六九歳で没しているから、彼らは立庄当時の給主と考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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