尾城跡
はしおじようあと
教行寺の東北方、大字萱野・的場・弁財天にわたる、ほぼ二町四方の環濠集落が城跡と考えられている。中心部に小字古城があり、付近に土井の小字も残る。大和六党の一、長川党の盟主箸尾氏の拠城で、箸尾氏は至徳元年(一三八四)の長川流鏑馬日記(天理図書館保井文庫)に春日若宮祭礼願主人の筆頭にみえ、応永二七年(一四二〇)の一乗院坊人用銭・給分支配状(天理図書館保井文庫)によると長河庄執行職・検断職にあって荘内に多くの名田をもっていた。
築城年代は明らかでない。箸尾氏は一乗院方国民として越智氏と行動をともにしていたが、「満済准后日記」永享三年(一四三一)八月二七日条に「去廿四日晩、自筒井方発向箸尾城落了云々」とみえ、大和永享の乱で筒井方に攻められて落城、箸尾宗信の時に筒井方についた。
尾城跡
かつらおじようあと
[現在地名]坂城町坂城
現坂城町の北端、戸倉町との境、標高八〇五メートルの山頂に位置する。峰から西南に連なる山の背を利用した村上氏の山城で、本郭を中央に左右に多くの脇郭と段郭を構える。
最高所の本郭は、長さ二九メートル・幅一二メートルの方形で、東北の一辺には土居敷長さ二・五メートル・高さ一メートルの土塁跡がある。本郭の西方は急斜面をなし、その裾に東西七メートル・南北一四メートルの第二郭がある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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