尾平村(読み)おびらむら

日本歴史地名大系 「尾平村」の解説

尾平村
おびらむら

[現在地名]四日市市尾平町・西伊倉にしいぐら町・伊倉いぐら三丁目・大井手おおいで三丁目・松本まつもと三丁目・西松本にしまつもと町・青葉あおば

曾井そい村の東、三滝みたき川の北岸にあり、村の北側は丘陵によって限られる。「五鈴遺響」は「神鳳鈔」にみえる外宮領長松ながまつ御厨の故地とする。長松御厨は内宮領のそれもあり、朝明あさけ郡に属する。両者の関係などは不明(→長松御厨。天正一二年(一五八四)頃の織田信雄分限帳には、石川修理がこの地で三三〇貫文を知行。江戸時代は津藩領、寛文九年(一六六九)支藩久居藩分封後は、両者の相給。ただし寛延(一七四八―五一)頃の「宗国史」によれば「戸、祠寺全隷久居、唯税八十石納宗国」とある。同書による戸数一三九、ほかに郷士二。人数五七二。


尾平村
おひらむら

[現在地名]椎葉村下福良しもふくら 尾平

下椎葉村の東、東流する耳川左岸に位置する。下福良掛三九ヵ村の一つで、所ヶ八重組に属する。日向国覚書に椎葉山之村形の一村として尾平とみえる。延享三年(一七四六)に検地竿入がなされ、畑六畝余(高七升余)が打出された(天明元年「椎葉山高反別取米一村限帳控」内藤家文書)。文政一一年(一八二八)の下福良村組焼畑見取場検地帳(相良家文書)では焼畑一町余・高一石一斗余。天保九年(一八三八)の椎葉山村々高覚(同文書)では高一石二斗余。寛延二年(一七四九)の村柄様子書上帳(同文書)では「畑地少々有之候ヘ共土地悪敷焼畑等も木立山無之、其上無精故いつとなく困窮仕申候、是先精ヲ出し相稼候ハヽ渡世も取続村も繁昌可仕与奉存候」とある。


尾平村
おひらむら

[現在地名]犬飼町くりはた

栗ヶ畑村の北、栗ヶ畑川上流部の三ノ岳西麓にある。江戸時代後期に栗ヶ畑村から分村したらしい。旧高旧領取調帳では高五一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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