尾長村
おながむら
[現在地名]東区尾長町・山根町・光が丘・二葉の里二―三丁目・光町二丁目・曙町一―四丁目
広島城下の村で、新開組に属した。古川村の北に位置する。東は安芸郡矢賀村。標高一八〇メートル前後の東西に長い尾長山(東部を高丸山、西部を二葉山という)の南麓に開けた低地で、南を江戸時代初期まで古川(太田川の分流)が流れていた。「知新集」には「ここを尾長とよふハ、むかし此所海辺にて、地かたハ山の尾にそひて長々しきゆゑ、名つくるよしいへり」とある。近世初期、山陽道(西国街道)が広島城下を通過するようになったとき、城下への東の入口となった。福島正則は安芸郡矢賀村との境界の岩鼻に大門を設置して、城下警備に役立たせたという(知新集)。
尾長村
おながむら
[現在地名]羽咋市尾長町
志々見村の北西、邑知潟の南の低平地に立地。東縁を飯山川が北流する。承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文に「尾長保」とみえ、もとは一三町七段九であったが、同元年の検注では田一三町七段二であった。享徳二年(一四五三)四月二一日の尾長秀吉売券(永光寺文書)によると、尾長保気多社二ノ権職畠を秀吉が永光寺に七貫文で売却している。秀吉は気多社神人であったとみられる。大永六年(一五二六)一〇月写の気多社年貢米銭納帳(気多神社文書)などによると、毘沙門堂・白子田などの地に気多社領田があった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報