山上保(読み)やまのうえほ

日本歴史地名大系 「山上保」の解説

山上保
やまのうえほ

京都祇園社(感神院)の神供料所で、同社領守富もりとみ保が一二世紀末から一三世紀初頭にかけて、保司良円のときに三つに分割されて成立(→守富保。良円の嫡子俊玄に譲られた当保は得田三〇町・役田三〇町で構成され、一―七月の中・下旬(六月は下旬のみ)の「都合百三十ケ日、料米百十一石六斗七升」神供料米を納めることとなっていて、ほかにも御塔仏供など恒例・臨時の社役は繁多であった(社家条々記録)。文永二年(一二六五)には当保内八田はつた(現甲賀郡水口町)の前地主である御家人五郎兵衛尉定俊は昨年分の供米等を押領、感神院所司はこれを訴えたが、定俊は幕府御教書をないがしろにして悪党行為に及んだ。


山上保
やまかみほ

現新里村新川につかわ・山上を含み、西方現粕川かすかわ村の田面たなぼ地区に及んでいたとみられる保。「吾妻鏡」治承五年(一一八一)閏二月二五日条に、足利忠綱(藤姓)が野木宮合戦に敗れて「上野国山上郷龍奥」に潜んでいたとある。また同書には源頼朝供奉人として、山上太郎高光・山上弥四郎秀盛の名前がみえるが、山上保を本領とする在地領主であろう。鎌倉時代、山上には行仙が居を構えていた(元亨釈書、沙石集)。「沙石集」によれば、行仙は「上野ノ国山上ト云所」にいて、もともとは「真言師」であったが「近比念仏ノ行者トシテ尊キ上人トきこえキ」とあり、長楽ちようらく(現新田郡尾島町)の明仙長老と仏法話をよくしていたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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