田部村(読み)たべむら

日本歴史地名大系 「田部村」の解説

田部村
たべむら

[現在地名]菊川町大字田部

田部川が木屋こや川に流入する付近の南側の平野を村域とする村で、東南下大野しもおおの村境にしら(二五一・一メートル)がそびえる。村内を南北に赤間関あかまがせき街道(北道筋)が通り、東は上大野・下大野の両村、北は下岡枝しもおかえだ村、西は七見ななみ上田部かみたべ両村、南は小月おづき(現下関市)に囲まれる。長府藩領で東豊浦郡奥支配に属する。

和名抄」記載の郷名に田部があり、その領域に含まれていた。上田部村の独立は江戸時代中期以降である。地名の由来を「地下上申」は、往古和泉庄」といったが、のちに田畠が開かれ人家もできたので、田部村というようになったと記す。しかしかつてこの辺が和泉庄とよばれた史料的裏付はない。

正平一九年(一三六四)南朝方の足利直冬は益田兼見に田部郷三分一地頭職を次のごとく宛行っている(益田家什書)

<資料は省略されています>

また田部郷には地名を名乗った田部氏がおり、村内白山はくさん神社の永享一三年(一四四一)の棟札には「大願主田部忠義」とみえ、「正任記」文明一〇年(一四七八)一〇月二七日では、大内政弘が田部河内入道と同名掃部助両人の跡地四一石を、杉彦六に返すことを命じている。


田部村
たべむら

[現在地名]山田町田部

長岡ながおか村の北東、利根川の支流黒部くろべ川中流域に位置する。現長南ちようなん地引の妙覚じひきのみようかく寺が所蔵する応安七年(一三七四)九月二四日銘の鰐口に田部地蔵堂とみえ、松沢まつざわ志高しだか村住人により寄進されている。この堂は永禄一三年(一五七〇)一一月一四日の伝法灌頂請定(徳星寺文書)徳星とくしよう寺末としてみえる西雲さいうん寺と考えられ、同じく田部善応寺が末寺として記載されている。徳星寺はかつて当地にあったようである(享保一五年「蓮華院流血脈写」同文書)。文禄元年(一五九二)の松平家忠知行書立には「田部之郷」とあり、高一千八〇一石余。松平家忠による文禄二年検地は農民の嘆願で中止(「家忠日記」同年八月一日条)。同三年より元和五年(一六一九)まで小見川藩領。その後佐倉藩領などを経て(「小見川領内諸事覚書」木内神社文書など)、寛永一六年(一六三九)から下野鹿沼藩内田氏領(寛政重修諸家譜・寛文朱印留)


田部村
たべむら

[現在地名]木之本町田部

木之本村の南東、田部山西麓の丘陵・平地に立地。北国脇往還が集落内を通る。あか川が北西隅をかすめて流れる。天正元年(一五七三)織田信長の小谷おだに(現東浅井郡湖北町)攻めの折、救援のため朝倉義景が田部山まで出陣したが追われた(同年八月二〇日「織田信長書状」本願寺文書)。同一三年閏八月の山内一豊知行目録(山内文書)に「四百石 田部」とみえ一豊領。慶長七年(一六〇二)の検地では田三〇町余・高四七二石余、畑一〇町六反余・高一一二石余、屋敷二反余・高二石余(伊香郡志)


田部村
たべむら

[現在地名]東村田部井たべい大久保おおくぼ

新田につた郡に属し、東は同郡大久保おおくぼ(現藪塚本町)、西は岡登おかのぼり用水を境に佐位さい田部井ためがい村字向原むかいはら。字開発かいはつ下開発しもかいはつがある。寛文一一年(一六七一)岡上開拓絵図(片山家蔵)田部井村新田場とあり、四万一千六二七・五坪と記す。同絵図には、集落や開発地への猪・鹿の侵入を防ぐため「しし土手」と称する堀と堤の配置が記され、田部井村新田場では一千一三間に及ぶ。


田部村
たべむら

[現在地名]天理市田部町

別所べつしよ村西方、かみ街道沿いに立地する。「日本書紀」景行天皇五七年冬一〇月条に「諸国に令して田部屯倉を興つ」とあり、田部は朝廷直轄の料地で屯倉に収納する部民の称か。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳に「田倍西庄」「田倍南庄」「田倍東庄」とある。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「田部南庄四町三反三百歩之内山辺郡八条六里」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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