山之上村(読み)やまのうえむら

日本歴史地名大系 「山之上村」の解説

山之上村
やまのうえむら

[現在地名]竜王町山之上

現町域の南東端、南方から延びる丘陵の先端に位置。村域は南北に長く、南は甲賀郡下田しもだ(現甲西町)八田はつた(現水口町)など、東は宮川みやがわ村・葛巻かずらまき(現蒲生町)。集落は東出ひがしで・西出・新村しんむら西山にしやまの四地区に分れる。中世には山上やまのうえ保として推移。戦国期には六角氏の家臣で山上保の公文などを勤めた山之上氏や、平田氏などの沙汰人衆がおり(竜王町史)、織田信長の近江侵攻後は蒲生氏に仕えたとされる。天正四年(一五七六)九月一一日、当地の一部などが山中織部に(「織田信長朱印状」浅野家文書)、同九年四月二〇日には西山上の二〇石などが森成利に与えられている(「織田信長朱印状」前田家文書)

元和五年(一六一九)旗本玉置領となる。のち同氏が尾張藩徳川氏の家臣となったため同藩領となり幕末に至った。当村のうち高一千石は玉置氏の給地(竜王町史)。寛永石高帳では高二千一二三石余、慶安二年書上では「給人玉置小平太」とみえ、田一千五〇四石余・畑屋敷一〇一石余・永荒川欠け五一八石余。


山之上村
やまのうえむら

[現在地名]枚方市山之上一―五丁目・山之上〈ひがし町・西にし町・きた町〉・宮之下みやのした町・藤田とうだ町・東田宮ひがしたみや二丁目・香里こうりおか一―七丁目・同九丁目

洪積層の丘陵台地の中腹に位置する。藤田川が北西に流れて、村北端を西流する天野あまの川に注ぐ。交野かたの郡に属し、北は田宮村、東は村野むらの村。もと南条なんじよう郷と称したが、元和三年(一六一七)から山之上村に改称したという(枚方市史)。「河内国小松寺縁起」に引く保延五年(一一三九)の勧進奉加帳と久安元年(一一四五)の近衛天皇綸旨に「山上郷」がみえる(ただしこの文書は検討を要する)


山之上村
やまのうえむら

[現在地名]美濃加茂市山之上町

上古井かみこび村の北にある山之上八ヵ村の総称。元来一村で、東西二〇町・南北五〇町に及ぶ大村である。南部は加茂川が開析した上野うえの台地、中部は加茂川・蜂屋はちや川の上流で、蜂屋丘陵の東部にあたる。最北は富士ふじ(三五七・二メートル)高木たかぎ山の二峰である。中世山上やまのうえ庄の名があり、寛文四年(一六六四)作田さくた社の棟札には「富本荘山之上村」とある。慶長郷帳では幕府領で、高一千五六三石余と山年貢米一五石。正保郷帳によれば尾張藩領で、本高のうち田方一千九八石余・畑方四六四石余、新開高二二九石余のうち田一一〇石余・畑一一九石余、山年貢米一五石。


山之上村
やまのうえむら

[現在地名]吉井町合田あいだ

中畑なかはた村の東にある。標高約二〇〇メートルの山々が連なり、谷間をすな川が南下して坂辺さかなべ(現赤坂町)に至る。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)軽部かるべ庄に山方村とあり、寛永備前国絵図には山ノ上村とみえ高二〇三石余。「備陽記」には笹原ささはら庄山之上村とある。「備陽国誌」は古名を山方村とする。享保六年(一七二一)蔵入并知行高村分帳によれば直高二六九石余、うち一五〇石が家臣一名の給地、残りが蔵入地。文化年間(一八〇四―一八)には三九石余が蔵入、一五〇石が家臣一名、残りが家臣二名の給地(岡山藩領手鑑)


山之上村
やまのうえむら

[現在地名]柵原町高城たかしろ

藤原ふじわら村の西に位置し、東は久木ひさぎ村など。こうみね(五一六・七メートル)東麓の畑作の多い地である。正保郷帳に山上村とみえ、田四一石余・畑一九六石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高五〇石余・開高二〇石余、村位は下。「作陽誌」では家数八九、男二六八・女二一四。津山藩森氏断絶後の領主の変遷は小瀬こせ村と同様。明治初年の鶴田藩移管の際の鶴田騒動では当地に農民が集結したが、首謀者の一人常八は白井山両国りようこく寺の修験であったという。騒動後常八は三ヵ年の徒刑を言渡されている。


山之上村
やまのうえむら

[現在地名]豊中市山ノ上町・立花たちばな町一―三丁目・宝山ほうざん

轟木とどろき村の南、豊中台地西端から低地へ移る所に位置し、岡町おかまち村から延びる伊丹いたみ道に沿って集落(現山ノ上町)が展開する。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図に村名がみえるが単独の高は不明。元和初年の摂津一国高御改帳、寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳では新免しんめん村六八一石余に轟木村とともに含まれる。


山之上村
やまのうえむら

[現在地名]加古川市平岡町山之上ひらおかちようやまのうえ

二俣ふたまた村の南東に位置する。山上村とも記す。中世は摂津住吉神社阿閇あえ庄に属したと考えられ、正平九年(一三五四)の住吉神社の造営には「山上一色」は「預所三貫文 公文一貫二百文 庄役二貫四百文」を負担している(同年八月日「住吉社造営用途注進状」住吉松葉大記)。天正一〇年(一五八二)八月二八日、羽柴秀吉は山名尭熙に対し、山上の高二五三石の知行を認めている(「羽柴秀吉判物案」記録御用所本古文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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