日本大百科全書(ニッポニカ) 「山井崑崙」の意味・わかりやすい解説
山井崑崙
やまのいこんろん
(1681/1690―1728)
江戸中期の儒学者。本姓は大神氏、名は鼎(かなえ)、字(あざな)は君彝(くんい)。崑崙はその号。紀伊(和歌山県)の人。伊藤仁斎(いとうじんさい)に学んだのち、江戸に出て荻生徂徠(おぎゅうそらい)に師事、伊予(愛媛県)の西条藩に仕えた。享保(きょうほう)13年、没した。徂徠の勧めに従って、友人根本遜志(そんし)(武夷(ぶい)、1699―1764)と足利(あしかが)学校遺跡を訪ね、3年間を費やして諸善本を読み合わせ、『七経孟子考文(しちけいもうしこうぶん)』を著した。中国で滅びた日本伝来の古籍の面目を伝えたもので、崑崙はその完成に心血を注いで病没したのである。
[金谷 治 2016年7月19日]