山内庄(読み)やまのうちのしよう

日本歴史地名大系 「山内庄」の解説

山内庄
やまのうちのしよう

現鎌倉市やまうちを遺称地とし、同市北部から戸塚とつか区の東半分に及ぶ一帯に比定される。

治承四年(一一八〇)の源頼朝挙兵の際、代々源氏の従者であった山内首藤氏の経俊は平氏側につき、頼朝が勝利を収めた直後に所領の山内庄を没収され、身柄を土肥実平に預けられた(「吾妻鏡」治承四年一〇月二三日条)。これが荘園としての初見である。文治四年(一一八八)五月一二日の後白河法皇院宣(同書同年六月四日条所載)に記す後白河院領の荘園の一つに「相模国山内庄」があり、また元暦元年(一一八四)三月七日前大蔵卿奉書(延慶本「平家物語」所載)にも後白河院の「東国御領山内庄以下便宜之御領」とみえる。また建久二年(一一九一)一〇月日の長講堂領目録(県史一)末尾に「不所課庄々」として年中の課役を課されぬ荘園のなかに当庄の名がみえる。明証はないが、以上の史料より平安末期に皇室領に寄進された荘園で、後白河上皇が本所となり、次いで上皇御所内の持仏堂である長講堂領とされたものと推定される。

山内首藤氏は資通(助通)が後三年の役に源義家の身近に仕える従者として名をあげ、以後、源氏譜代の武士として活躍した。山内庄と関係をもつに至った時期・経緯などは不明であるが、遅くとも源義朝が鎌倉の館に居住した天養元年(一一四四)頃までにはこの地に土着していたと推定される。おそらく山内首藤経俊は当庄下司の地位にあったと思われ、その権利が頼朝によって否定された後、現地の支配権は経俊の身柄を預けられた土肥実平に与えられたらしい。土肥氏の支配は実平の子遠平、その子惟平まで続いたが、建保元年(一二一三)の和田合戦に惟平が和田義盛方にくみして敗北したため、没収されて北条義時に与えられた(「吾妻鏡」同年五月七日条)。以後鎌倉時代を通じて北条氏得宗領として支配された。この間、本所は鎌倉時代初めに後白河上皇から皇女の宣陽門院覲子内親王に伝わり、以後は長講堂領の一つとして持明院統へと伝領された(嘉元二年七月八日「後深草院処分状」伏見宮御記録)。だが貞応三年(一二二四)以後仁治三年(一二四二)以前と推定される宣陽門院所領目録(県史一)には「雖有御領号不済年貢所々」の筆頭に「相模国山内庄」の名があり、すでにこの頃には本所の支配は有名無実化していたと思われる。のちの応永一四年(一四〇七)三月日の宣陽門院(覲子内親王)領目録写(県史三)にも「雖有御領号不済年貢所々」の一つとして当庄があげられている。


山内庄
やまのうちのしよう

近衛家領の荘園。天福二年(一二三四)八月付青蓮院門跡滋源(関白近衛道家の子)の所領注文(華頂要略)に、その末寺常寿じようじゆ院領として、

<資料は省略されています>

とみえるのが早い例である。また建長五年(一二五三)一〇月二一日付近衛家所領目録(近衛家文書)に「庄務本所進退所」として「丹波国山内庄信輔」とみえ、左注に「京極殿領内」とある。以後、具体的な伝領関係は不明であるが、室町時代のものと思われる年号不詳の蜷川家文書断簡に、

<資料は省略されています>

とあり、山内庄が一一村で構成されていたこと、およびそのうち足利義満弟(満詮)の「小川殿御料」分八村の村名が明らかになる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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