日本歴史地名大系 「山隈村」の解説 山隈村やまぐまむら 福岡県:三井郡大刀洗町山隈村[現在地名]大刀洗町山隈、小郡市山隈筑後川支流の大刀洗川上流域、花立(はなたて)山の南麓に位置し、西は高樋(たかえ)村に接する。もと山隈原(やまぐまばる)といわれた地。宮巡(みやめぐり)・春園(はるぞの)・十(じゆう)ヶ渕(ふち)・中西又原(なかにしまたばる)・馬(ま)ヶ田(た)の各遺跡では甕棺や土器などが出土。「柏葉抄録」延文四年(一三五九)八月記事に「山隈原ハ古戦場なり」とあり、大保原合戦をさすものか。この合戦で菊池武光が少弐頼尚らの大軍を大保原(おおほはら)・小郡原(おごおりばる)に破り、ついで山隈原に追撃して小川を渡ったという。永禄一〇年(一五六七)の九月八日付の大友宗麟感状(立花家文書/福岡県史資料四)に「山隈在陣」とあり、戸次氏一族の戦功を賞し、戸次鑑連(道雪)に打物一腰を与えている。同一一年一一月山隈城に入った鑑連は問注所鑑豊の娘との婚礼のため同月二五日草野(くさの)(現久留米市)に移っている(「立花家雑集」など)。 山隈村やまぐまむら 福岡県:小郡市山隈村[現在地名]小郡市山隈、三井(みい)郡大刀洗(たちあらい)町山隈筑後川支流の大刀洗川上流域、城(じよん)山(花立山・権現山などとも)の南麓に位置し、西は干潟(ひかた)村・上岩田(かみいわた)村などに接する。城山南斜面の日子(ひのこ)神社一帯に花立山(はなたてやま)古墳群が広がる。もと山隈原(やまぐまばる)といわれた地で、はじめ山隈村一ヵ村であったが、今隈(いまぐま)村・花立村などが分立した。(大刀洗町の→山隈村)〔今隈村〕 今隈村は弥八郎(やはちろう)堤から松崎(まつざき)町の筒(つつ)ヶ池(現大添堤)に流れ込む小川の流域一帯。天正一六年(一五八八)二月一二日の庄崎弥七郎宛原田信種知行坪付(庄崎文書)では小早川隆景の与力となった原田信種が家臣の庄崎弥七郎に「下さ内今隈分やしき付三反内 一所二反 治部丞」などを与えている。 山隈村やまぐまむら 福岡県:朝倉郡三輪町山隈村[現在地名]三輪町山隈現三輪町域の南西端にあり、北は下高場(しもたかば)村(現夜須町)。筑後川支流の宝満(ほうまん)川と小石原(こいしわら)川に挟まれ、山隈山(現城山。一三〇・六メートル。花立山とも)の東麓にあたる。大坂陣以後浪人となった平田倶勝(字因幡)が、元和四年(一六一八)に黒田長政の家臣村田出羽守吉次に山隈(山熊)原開墾を願い、同八年から長政の許可のもと開墾して成立した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by