日本歴史地名大系 「岡部宿」の解説
岡部宿
おかべしゆく
〔中世〕
「吾妻鏡」文治元年(一一八五)一二月一六日条に「駿河国岡部宿」とみえ、上洛途中の幕府の使者雑色浜四郎が当宿で発病し床に伏してしまったため、この日代人として生沢五郎を派遣した。建久元年(一一九〇)一〇月一二日、源頼朝は上洛途次当宿に宿泊している(同書)。また建長四年(一二五二)三月二七日鎌倉下向中の将軍宗尊親王は当宿で昼食をとっている(同書・宗尊親王鎌倉御下向記)。中世の紀行類から当宿に関する記事を拾うと、まず「海道記」貞応二年(一二二三)四月一二日条には「岡部の里をすきて遥かに行けは、宇津の山にかかる」、「東関紀行」には仁治三年(一二四二)八月に「まへ嶋の宿をたちて、岡部のいますくをうち過るほと、かた山の松のかけに立よりて、かれいゐなと取出たるに、嵐冷しく梢にひゝきわたりて、夏のまゝなる旅ころも、うすき袂もさむくおほゆ」、「関東往還記」弘長二年(一二六二)二月二二日条には「於同国岡辺宿中食」、「太平記」巻二(俊基朝臣再関東下向事)には「岡辺ノ真葛裡枯テ、物カナシキ夕暮ニ、宇都ノ山辺ヲ越行ハ」、「富士紀行」永享四年(一四三二)九月一八日条には「岡部の里を過て、やかて宇津山にわけ入侍る」などとある。また「平安紀行」によると、文明一二年(一四八〇)六月太田道灌は岡部で「ゆふまくれ岡へにかゝる葛のはのうら吹かへす風そ涼しき」と詠んでおり、天文二年(一五三三)一一月には京都仁和寺尊海が「岡部の里越ゆくに、かたるへき友もなけれは」として「置霜のをかへの里に友もなくひとり過行すきの下道」と詠んでいる(あづまの道の記)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報