岩坪村(読み)いわつぼむら

日本歴史地名大系 「岩坪村」の解説

岩坪村
いわつぼむら

[現在地名]鳥取市岩坪

砂見すなみ川の最上流部に位置する。砂見・松上まつがみ両谷の最奥にあたり、西方の河内こうち村、北方の松上村、東方の上砂見村、南方の八上やかみきた(現河原町)まで各一里。河内村への行程には鰐坂わにざかという難所があり、北村へは四十八曲の坂道で栗谷くりだに坂と称された(因幡志)。村名は村奥にある滝坪に由来するという(同書)

拝領高は九七石余。延宝四年(一六七六)五月日の年貢免状(岩坪区有文書)は前欠だが、「立毛悪田ヘ遣」一九石余、「草臥加損ニ遣」一〇石余などを控除した物成高二二石余で、犬役米六升一合・山札五枚の役銀一七匁五分を課されている。元禄三年(一六九〇)五月日の年貢免状(同文書)では生高一一二石余で免五ツ一分、同年秋に「三分上」となって実質免五ツ四分であった。当毛加損三斗余を物成から控除され、山札銀一〇匁五分を課されている。同五年五月日の年貢免状(同文書)では今高(生高)は変化なく、地平し段免制により田は四ツ一分から六ツ四分の七段階、畑は四ツ一分から六ツ一分の六段階に分けられ、定米から逆算すると平均の免は五ツ三分。


岩坪村
いわつぼむら

[現在地名]高岡市岩坪

小矢部おやべ川左岸に位置し、南は細池ほそいけ村、西は手洗野たらいの村。村内を頭川ずかわ川が貫流する。氷見ひみ道が通り、小矢部川には岩坪渡が置かれるなど、交通の要所であった。中世には小矢部川流域に形成された国衙領の一つ、岩坪保が成立していた。明徳三年(一三九二)六月二三日の旦那売券(熊野那智大社文書)によれば、御師である六郎左衛門入道道金が相伝してきた「岩つほの先達乗円坊并下野殿二人門弟引旦那」を、伏拝之卿阿闍梨坊に四貫五〇〇文で売渡している。康正元年(一四五五)一二月二七日には、将軍足利義政が小串次郎右衛門尉成行に越中国岩坪保等を安堵した(「足利義政袖判御教書」群馬県立歴史博物館所蔵文書)


岩坪村
いわつぼむら

[現在地名]出島村岩坪

菱木ひしき川右岸の台地上にあり、北は安食あんじき村、東は柏崎かしわざき村。天正期(一五七三―九二)に佐竹氏の支配下に入り、のち一族の東義久知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「いはつほ」とある。慶長七年(一六〇二)佐竹氏移封後は水戸藩領となり、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高の安食村の項に「柏崎・岩窪共ニ」と注記される。正保二年(一六四五)宍戸藩秋田氏の転封に伴う領地替で水戸藩領を離れ(出島村史)、正徳期(一七一一―一六)に土浦藩領となり(土浦市史)、弘化元年(一八四四)戸数は三三・人数一八〇(「県方集覧」酒井泉氏蔵)


岩坪村
いわつぼむら

[現在地名]大栄町岩坪

下種しもだね村の北西に位置する。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高二四石余、竈数六。享和三年(一八〇三)下種村の新田村として届けられている(藩史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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