安食村(読み)あじきむら

日本歴史地名大系 「安食村」の解説

安食村
あじきむら

[現在地名]栄町安食・安食台あじきだい一―六丁目

現町域のほぼ中央部を占め、北を利根川が東流し、印旛沼と結ぶ長門ながと川を境に西は布鎌ふかま新田。成田道と銚子道が通り、安食河岸が置かれた。古くはかわさき村と称されたという(「勝田氏代々系図」勝田文書)。永禄九年(一五六六)から同一一年頃で千葉胤富のものと推定される書状(原文書)に「あち木」とみえ、当地のこととも考えられる。寛永二年(一六二五)の埴生庄安食郷地詰屋敷帳(山田家文書)には下村しもむら辺引へびき・木須賀の地名がみえ、田六〇町五反余・畑一九町九反余・屋敷三町一反余。同年の本多正貫領知目録写によると当村一千二〇〇石が旗本本多領となっている。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一千五四五石余で幕府領。天和二年(一六八二)の年貢割付状(勝田家文書)でも同高で、うち無地高(無反別)四〇三石余・新田四五九石余・新々田八〇石余。享保八年(一七二三)より山城淀藩領で、同年の高一千五八二石余、夫役永二貫六八六文余・林下草銭永五〇〇文・野銭永五〇〇文・山銭永二貫一八五文・草銭永二五〇文・同鐚五〇〇文・川役永一貫五六三文・野地銭永一八貫一五〇文・鳥役銭永一〇貫五〇文であった(淀藩領郷村帳)


安食村
あじきむら

[現在地名]筑波町安食

小貝こかい川東岸に所在。北方の高道祖たかさい(現下妻市)と南方の吉沼よしぬま(現大穂町)を結ぶ道沿いに居住区がある。東方の筑波稲敷つくばいなしき台地西端の安食遺跡からは縄文中期の土器が出土。中世には小田時知の子盛知(宗成・時隆とも伝える)が居住して安食氏の祖となり、その子兵部少輔知房が安食氏を継いだ(新編常陸国誌、小田氏系譜)。応安七年(一三七四)九月二七日の安富道轍等連署奉書写(香取文書)に小田兵部少輔入道がみえる。元和八年(一六二二)大名堀利重領、延宝七年(一六七九)天領となって廃藩置県に及び、寛政五年(一七九三)には竹垣直温が代官となった(竹垣君徳政之碑)


安食村
あんじきむら

[現在地名]出島村安食

北は霞ヶ浦に臨み、東は柏崎かしわざき村。古代は「和名抄」記載の安餝あじき郷の本郷の地に比定される(新編常陸国誌)。中世は南野みなみの庄に属し、応永一〇年(一四〇三)三月二八日銘の大宮おおみや神社鰐口に「南野庄安食郷」とある。鎌倉時代には郷内に安食館が置かれ、小田氏の一族が居住して支配したといわれるが、小田氏の勢力が衰えるとともに、天正期(一五七三―九二)には佐竹氏の支配下に入る。のち佐竹氏一族の東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「あんぢき」とある。

慶長七年(一六〇二)佐竹氏秋田移封後は水戸藩領となり、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に村高一七二二・四石、ほかに新田四四石余とあり、「柏崎・岩窪共ニ」の注記がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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