日本歴史地名大系 「岩谷口村」の解説 岩谷口村いわやぐちむら 新潟県:佐渡郡相川町岩谷口村[現在地名]相川町岩谷口大佐渡の山地を背に、海岸低地に展開する小村落。南は砂浜続きで五十浦(いかうら)村。北は真更川(まさらがわ)村(現両津市)。集落のはずれは押出(おしだし)岬といい、大佐渡山系の岩山が押出すように断崖となって海中に深く落込む。海浜の歩行はまったく不能で、跳(はね)坂とよばれる急峻な岩肌を登る細い山道で、近世以来陸路交通の難所として知られたが、昭和四四年(一九六九)林道開設により真更川と車で結ばれた。村は中央を流れる小(こ)川を挟んで、北側に住む岩谷衆と南側の土船衆が集まってできたと伝わる。岩谷衆の草分は、大(おお)川の近くにある古田や垣(かき)ノ内(うち)を所有する谷口弥藤右衛門・矢部源四郎・田中治左衛門といわれる。弥藤右衛門は清水の湧出地に岩谷大明神を祀り、源四郎は岩谷洞穴前に観音堂をもつ。 岩谷口村いわやぐちむら 愛媛県:伊予郡砥部町岩谷口村[現在地名]砥部町岩谷口岩屋口とも書く(天保郷帳など)。古岩谷(ふるいわや)の入口の村の意であろう。砥部川中流右岸の地を占め、北は千足(せんぞく)村、南は大平(おおひら)村、西は川を隔てて大南(おおみなみ)村、東は山境で現松山市に接する。「予陽河野家譜」に正平二三年(一三六八)六月、河野通尭(通直)が豊前国から伊予郡松前(まさき)浦に帰り武家方と戦った記事の中に、「敵又到于温泉郡捕陣之間、自味方欲夜討、敵不堪引籠于大空城、吾河、黒田、岩屋谷衆馳参最前、」とあり、「岩屋谷」の地名がある。寛永一二年(一六三五)に松山藩領から大洲藩領となったいわゆる「御替地(おかえち)」に属し、浮穴(うけな)郡砥部郷一九村の一で、江戸時代を通じ新谷藩領であった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by