伊予郡(読み)いよぐん

日本歴史地名大系 「伊予郡」の解説

伊予郡
いよぐん

面積:二五九・〇九平方キロ
松前まさき町・砥部とべ町・広田ひろた村・中山なかやま町・双海ふたみ

県の中部、松山平野西南部が郡の北部をなし、東西に流れる重信しげのぶ川がその北限である。西部は広く伊予灘に面している。郡域の大部分を占める東部・南部は高峻な四国山地の一部で階上はじかみ(八九八・六メートル)障子しようじ(八八四・九メートル)秦皇しんこう(八七四メートル)など九〇〇メートル近い山々がそびえ、上浮穴かみうけな郡・喜多きた郡などと境している。ここを水源として南流する中山川・田渡たど川は屈曲してひじ川の上流となり、北流する砥部川は重信川の一支流をなしている。また西流するもり川・上灘かみなだ川はそのまま伊予灘に注ぐが、森川流域の山地と松山平野の一部を含む旧伊予郡西北部五六・二九平方キロの地域は昭和三〇年(一九五五)に伊予市となった。重信川河口から伊予市までの海岸は砂浜海岸であるが、以南は直線状の断層海岸をなしている。

和名抄」流布本に「伊予郡」、高山寺本に「伊与郡」と記し、いずれも訓を欠く。「延喜式」神名帳には「伊予イヨ郡」、「伊予国風土記」逸文に「伊与郡」、法隆寺伽藍縁起流記資財帳には「伊余郡」とある。古代の郡域は現在の松前町と伊予市のほぼ全域とされ、北に久米くめ郡・温泉おんせん郡があり、東と南は浮穴郡に囲まれていた。「和名抄」記載の伊予郡内郷名は、神前かんざき吾川あがわ石田いしだ岡田おかだ神戸かんべ余戸あまるべの六郷で、うち神前郷は現松前町神崎かんざきを中心とした地区、岡田郷は同恵久美えくび地区、神戸郷は同筒井つつい付近に比定される。また浮穴郡出部いずべ郷は現砥部町地区と考えられている。郡名は古来の伊予郡を継承するが、現伊予郡には旧下浮穴郡域が広く取り込まれている(→下浮穴郡

〔原始〕

伊予市との境界の行道ぎようどう(四〇三・一メートル)北方の尾根に近い砥部町田浦たうらに弥生系高地性遺跡があって、石剣や箱式石棺、副葬の勾玉の類、須恵器などを出し、また松前町出作しゆつさくでも有柄式石剣や、古墳時代の祭祀用の土師器・須恵器を多数出土している。ここは式内社の伊予神社・高忍日売たかおしひめ神社に近接しており、古くからの居住地域と考えられる。また砥部町宮内みやうちの砥部川沿いの大下田おおげたには横穴式石室をもつ数多くの円墳・方墳があり副葬品として須恵器の子持高坏などを出し、近くに須恵器の窯跡も発見された。

〔古代〕

松前町の横田よこた・神崎地区には条里制の痕跡や、それに関する地名が残っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報