現那珂川町之条、為九州官軍、可得其構云々」とし、領主らに沙汰して整備するように定められており、当地に大宰府の城と同様重要な城郭が築かれていた。同八年霜月騒動の地方的波及の一つとして少弐景資(盛氏)の惣領経資への反乱(岩門合戦)が勃発し、景資は岩門城で敗死したという(歴代鎮西志)。同九年一〇月二九日に発給された宛行状(「関東下知状案」有浦文書/鎌倉遺文二一など)によれば、景資与党の御家人の旧領は岩門合戦の恩賞地として配分され、また前掲配分注文によれば景資に従った金田六郎左衛門尉(時通)跡の那珂東郷岩門は一〇分割され、相神家弘・住吉政秀・多比良尊聖・斑島左衛門三郎・「
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報