岳牟田庄・隈牟田庄
たけむたのしよう・くまむたのしよう
現城南町のうち浜戸川以北、すなわち緑川と浜戸川に挟まれる地域を占めていたと判断される王家領荘園で、南西方は守富庄、南東方は豊田庄に接していた。平安末から鎌倉末までの史料では岳牟田庄とするものが多く、鎌倉末以降は隈牟田庄ないしは隈庄とする史料が多い。中世史料に荘内としてみえる地名には、佐恵木(才木・西木)・千原、森崎(現上益城郡嘉島町)、島田・生河里(碇)・五郎丸名(蓍町内)・有安名などがある。「事蹟通考」では領村二三として、隈庄・宮地・西木・島田・六田・築地・出水・今・吉野・平野・坂本・蓍町・千原・永・丹生宮・高・赤見・碇・七島、釈迦堂(現富合町)、それに上益城郡の上島・下仲間(現嘉島町)、万ヶ瀬(現御船町)をあげるが、上島以下は六箇庄に属するとみたほうがよい。
安元二年(一一七六)二月日の八条院領目録(国立公文書館蔵山科家古文書)に隣庄豊田庄とともにみえ、また嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院御領目録(竹内文平氏所蔵文書)には京都歓喜光院領としてみえる。八条院(鳥羽皇女)領荘園群は八条院のあと後鳥羽院の管領するところとなり、承久の乱でいったん没収されたのち、後高倉院守貞親王に返付され、安嘉門院を経て亀山上皇・恒明親王・昭慶門院そして後宇多上皇と伝えられ、大覚寺統の主要財産となったが、いつの頃からか上分の一部が歓喜光院(美福門院建立)に寄せられていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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