峯山町(読み)みねやままち

日本歴史地名大系 「峯山町」の解説

峯山町
みねやままち

[現在地名]峰山町字吉原よしわら・字四軒しけん・字不断ふだん・字かみ・字織元おりもと・字むろ・字呉服ごふく・字浪花なにわ・字白銀しらかね・字いずみ・字千歳ちとせ・字御旅おたび・字富貴屋ふきや・字さかい・字古殿ふるどの

古くは嶺山と記され、江戸時代にはおもに峯山、現在は峰山と記す。

中郡平野を流れる竹野川は現峰山町に入って鱒留ますどめ川を合わせるが、峯山はその下流左岸に位置する。中世吉原庄の中心地で一色氏被官吉原氏が築いたと伝える嶺山城が吉原山(山祇やまずみ山、権現山)にあった。天正一〇年(一五八二)細川藤孝(幽斎)の息興元が吉原に入り、嶺山城に陣屋を増築南方寺谷てらだにより東に市街を開いたという。江戸時代には元和八年(一六二二)京極高知の猶子高通が一万三千石で峯山に分封され(丹後では一万石)、館を中心とした峯山町が形成された。吉原山南腹から南方の小西こにし川にかけての地である。

峯山の名を史料的に確認できる早い例は、連歌師里村紹巴が記した「天橋立紀行」である。永禄一二年(一五六九)閏五月京都をたった紹巴は、天橋立(現宮津市)に遊んだのち、忌木いみき(現与謝郡岩滝町)を経て「嶺山」に行き「嶺山の城」を訪れている(→嶺山城跡

この頃の峯山については他に史料がなくつまびらかにできないが、稲代吉原いなしろよしわら神社の天正四年七月二八日の年紀をもつ棟札に「町中(中略)本嶺山毛呂六左衛門」とあるのが峯山をさすと思われ、同一〇年細川興元が吉原山城に入る以前に、町場が形成されていたらしいことがうかがえる。細川氏時代の峯山についても、「峰山古事記」に収める文書(年代不詳)に「高百十一石三斗八升 町分 内六十三石三斗八升細川玄蕃様御代より町居屋敷代々御免 残り四十八石二斗二升」とみえて、わずかに町地があったことを知りうるにすぎない。

慶長六年(一六〇一)京極高知が丹後一国を領して田辺たなべ(現舞鶴市)に入封、翌七年検地を行った。「峰山古事記」は「慶長七年十月検地名寄帳に字付有」とし「かせ原・ふたん町・寺の谷・わだ・念仏寺谷・中間町・といしが村 田畑高米合三十五石三斗九升一合三勺」と記す。また慶長一九年一二月納嶺山町裏年貢帳(「峰山古事記」所引)には、

<資料は省略されています>

とみえる。延宝八年(一六八〇)改の峯山領御知行郷村高帳によれば「吉原庄」のうちに「元杉谷分」として六七〇・〇六石が記され、このうち六三石が「峯山御用地御引」とされている。また同帳は吉原庄の個所で別に三五・一二二石を記し、うち三二・六四石を峯山分とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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