日本歴史地名大系 「吉原庄」の解説
吉原庄
よしわらのしよう
吉原庄の初見は、東福寺諸荘園目録(東福寺文書)のなかに、
とある。嘉禄は三年に安貞と改元されているので、同四年は存在せず、安貞二年(一二二八)とすべきであろう。さらに疑問が生ずるのは、東福寺がこれから八年のちの嘉禎二年(一二三六)に建設に着手し、建長七年(一二五五)に落慶の式をあげるのであるから、嘉禄四年は嘉禎四年の誤記であろう。九条家重書目録(九条家文書)のなかに「一通 東福寺領伊与国吉原庄事嘉禎四年九月廿五日」とあるのがこれにあたると思われるからである。
さらに同目録は、吉原庄関係文書を以下のようにあげている。
次に吉原庄が東福寺領となった経過についてみよう。初め藤原忠通(法性寺殿)の時代に、同家が吉原庄を領有していたように考えられる。
吉原庄
よしわらのしよう
吉原庄
よしはらのしよう
文永六年(一二六九)と推定される官中便補地別相伝輩并由緒注文案(壬生家文書)に「件庄者、自源包満之手伝領之後、隆職宿禰殊入功力、開発荒野、云地主云開墾、由緒異他、随則子孫相伝之 宣旨了」とある。鎌倉初期に小槻隆職が地主源包満より伝領し荒野を開発した私領である。隆職はこれを「官御祈願所便補」の地とし、さらに建久九年(一一九八)一〇月二九日の死に先立って高倉院法華堂に寄進した(貞応二年六月一一日「小槻国宗譲状案」同文書)。この法華堂とは養和元年(一一八一)に没した高倉院を葬った山城国
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報