室町末期の連歌師(れんがし)。奈良に生まれる。父は松井姓で、興福寺一乗院の小者とも、湯屋を業としていたともいう。のちに師里村昌休(しょうきゅう)より姓を受けたので里村紹巴とよばれることが多い。号は臨江斎。12歳で父を失って興福寺明王院の喝食(かっしき)(寺院に入って雑用をつとめる少年)となり、そのころから連歌を学ぶ。19歳のとき奈良にきた連歌師周桂(しゅうけい)(1470―1544)に師事して上京、周桂没後は昌休に師事、三条西公条(きんえだ)(1487―1563)に和歌、物語を学んだ。1551年(天文20)ごろから独立した連歌師として活動を始め、宗養(そうよう)(1526―63)没後は第一人者としての地位を保った。三好長慶(みよしながよし)、織田信長、明智光秀(あけちみつひで)、豊臣(とよとみ)秀吉らの戦国武将をはじめ公家(くげ)、高僧と交渉があり、ともに連歌を詠むと同時に政治的にも活躍し、本能寺の変直前に光秀と連歌を詠み(『愛宕(あたご)百韻』)、変ののち秀吉に句の吟味を受けたことは有名。秀吉の側近として外交、人事などにも関係したが、1595年(文禄4)秀次(ひでつぐ)の事件に連座して失脚、失意のうちに没した。
連歌の社会的機能を重視し、連歌会の円滑な運営中心の考え方のため、作風や理論に新しみは少なく、連歌をマンネリ化させたとする評価もなしうるが、連歌を普及させた功績も大きく、優れた句もままみられる。一座した連歌作品は多数あり、『毛利千句』など千句も多い。連歌論書に『連歌教訓』『連歌至宝抄』など、紀行に『富士見道記(みちのき)』、注釈に『狭衣下紐(さごろもしたひも)』などがある。
[奥田 勲]
『小高敏郎著『ある連歌師の生涯――里村紹巴の知られざる生活』(1967・至文堂)』▽『奥田勲著『連歌師――その行動と文学』(1976・評論社)』
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室町・安土桃山時代の連歌師。本姓松井氏。臨江斎と号す。のちに里村北家の祖とされる。奈良の生れ。出自には不明な点も多い。周桂,昌休に師事し,連歌界第一の宗匠として活躍し,多くの百韻,千句をのこした。連歌論書に《連歌至宝抄》がある。また,三条西公条(きんえだ)らに二条派の歌学を学び,《源氏二十巻抄》《百人一首紹巴抄》《狭衣下紐(さごろもしたひも)》などの注釈書を著している。
執筆者:小高 道子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…理論の面でも,心敬の《ささめごと》や宗祇の《吾妻問答》のような高い精神性や芸術意識を持つ著作が現れる。以後はきわだった展開は見られず,詩としての完成度は低下してゆくが,一方で,織豊政権下の紹巴(じようは)のように,連歌が持つ社交的機能を重視して,座の円滑な運営に意を用いて,その意味では画期的な連歌の時代を現出させた連歌師の存在も軽視できない。また,宗牧,宗養,あるいは里村昌休・昌叱(しようしつ),紹巴・玄仍(げんじよう)ら父子の連歌師が中世末期に多く出現することで明らかなように,〈連歌の家〉が成立して連歌師が代々世襲されてゆく傾向が生じた。…
…公家や上級武士,地方武士などとも深い交渉を持ち,地方を旅することが多く,文化の伝播者の役目をおのずと果たすとともに,旅によってみずからの詩心を深めたといってよい。室町末期から戦国時代にかけての,宗牧,宗養,紹巴(じようは)らの生き方は宗祇によって示されたものを多少とも継承している。とくに紹巴のごときは,若年の決意として〈連歌師は出世しやすい道であって,職人・町人も貴人の座に連なることができる〉と広言していたという。…
※「紹巴」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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