出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
江戸時代以来つづいていた東京の遊郭地。江戸幕府は集娼制(しゆうしようせい)を確立するため,1617年(元和3)3月に従来江戸市中数ヵ所に散在していた遊女屋を集めて葺屋町(現,中央区日本橋人形町付近)に傾城(けいせい)町(遊郭)をつくることを許可した。その土地は埋立地で,ヨシ(アシ)などが繁茂していたので〈葭原(よしわら)〉と呼ばれ,後に縁起のよい字にかえて〈吉原〉と称したという。ここに江戸町と京町を建設するのに約1年半を費やし,18年11月に一斉開業し,数年後に京町2丁目(新町ともいう)と角町(すみちよう)とを追加建設した。41年(寛永18)以後夜業を禁じられ,そのため一時私娼(湯女(ゆな))が勢いを得ていた。56年(明暦2)に本所あるいは浅草山谷(さんや)のいずれかへ移転を命じられた。これは江戸の市街の発展に伴い,かつての葭原が商業地帯に近接した繁華地となったための政策の見直しであり,翌57年の明暦大火による類焼は移転を決定的とし,業者らは浅草山谷(現,台東区千束4丁目)の地を選び,同年8月に移転を完了した。以後この地を〈新吉原〉と呼ぶのに対し,旧地を〈元吉原〉と称するようになった。新吉原への移転に反対した業者に対し,幕府は敷地の5割増,引越料1万両余の下付,夜業の許可,火消役などの町役免除を条件とした。しかし,これらは吉原を優遇したのでなく,特殊な一郭として一般市中からの隔離を図ったものである。新吉原は揚屋(あげや)町を新設したほかは元吉原とだいたい同型に形成され(新吉原の地割については図参照),後に伏見町,堺町(その後閉鎖)が開かれた。新吉原への経路は,江戸市中から浅草へ出,日本堤から五十間道へ入り,衣紋(えもん)坂を下りて大門(おおもん)口へ至るのが普通であった。大門は吉原の玄関で,夜10時から翌朝までは大戸をしめ,くぐり門を通行させた。その他の出入口は非常口で平常は開放されなかったが,周囲のどぶ(〈おはぐろどぶ〉と俗称)には臨時に使用する〈はね橋〉が用意されていた。大門の内側左右には番所,会所があって,それぞれ幕府と吉原町の役人が詰めて郭内の取締りにあたった。郭内を〈五丁町〉と総称したが,江戸町,京町1丁目,角町を〈大町(だいちよう)〉と呼び,上格の町とした。仲ノ町には揚屋の衰滅した宝暦期(1751-64)以降,両側に引手茶屋が並んだ。吉原は,元吉原以来明治時代までに24回も全焼したが,被災後は仮指定地(今戸,深川など)での仮宅(かりたく)営業が認められた。仮宅には開放感があって遊客も多く,遊郭に利益をもたらした。
吉原は1750年(寛延3)以降だいたい2000~3000人の遊女をかかえ,春の夜桜,秋の灯籠,にわか(俄)などの行事に多数の遊客を集め,江戸の一大享楽地であるとともに一種の社交場でもあり,江戸文化の発展にも影響を与えていた。その案内書である〈吉原細見〉が約150年間毎年発行されつづけたのは,日本の代表的遊郭であったことを物語っている。しかし江戸時代末期には,古風な格式と沈滞した空気および遊興費の高いことなどで,深川その他の私娼街に客の一部を奪われるに至った。さらに明治時代以後の花柳街の急激な発展は吉原を衰微させ,単なる売春地帯に堕した。1946年の公娼廃止後はいわゆる〈赤線地帯〉として存続したが,もはや昔日のおもかげを失い,58年2月の売春防止法によって一斉廃業を余儀なくされた後,一部は旅館,娯楽場として転業再開,さらに特殊浴場街となって今日に至っている。
→芸者 →細見 →娼妓 →遊郭
執筆者:原島 陽一
駿河国(静岡県)富士郡の東海道の宿駅。鎌倉時代より見え,《春能深山路》弘安3年(1280)11月24日条に〈よしわらとて小家のあるに立ち入て〉とある。戦国時代には吉原湊が流通の拠点として発達した。1554年(天文23)の今川義元判物によれば,矢部孫三郎は吉原の道者商人問屋,渡船の支配を免許され,諸役を免除された。当時,駿河国内の清水・沼津両湊と並ぶ重要な湊でもあった。1601年(慶長6)東海道の宿駅に指定された。津波や漂砂などの災害をうけ,39年(寛永16)鈴川,今井の元吉原から中吉原に移り,82年(天和2)北方の伝法,瓜島に移された。宿は本町,伝馬町,東本町,西本町,東横町,西横町,六軒町,寺町,追分町から成り,加宿の伝法村と合わせ町並みは12町10間であった。《東海道宿村大概帳》によれば戸数653,人数2832,本陣2,脇本陣3,旅籠屋60であった。近在へ魚を販売に出る者も多かった。1948年市制施行,66年富士市と合体。
執筆者:川崎 文昭
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江戸の遊廓。1618年(元和4)それまで市中に散在していた売春宿を日本橋葺屋(ふきや)町に集めたのが始まりで,市域の発展により中心街に近くなったため,明暦の大火後の57年(明暦3)に浅草の先(現,台東区千束4丁目)に移転させた。以後,正式にはこれを新吉原,旧地を元吉原と称した。新吉原は約2万坪。周囲に溝を設け,出入りは大門(おおもん)の一方口とし,外観上も特別の区域とした。仲の町(ちょう)とよばれる中央の広い道路で左右に二分し,江戸町(ちょう)・京町(まち)・角町(すみちょう)など5町をおいた。開設時には揚屋(あげや)もあったが,18世紀中頃に廃絶し,代わって引手(ひきて)茶屋が遊興の中心となった。つねに3000人ほどの娼妓を抱えたが,幕末に退潮したまま明治期以後も存続し,1958年(昭和33)の売春防止法の施行で消滅した。
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…吉原における上級遊女の別称。新造,禿(かむろ)などが専属の姉女郎を〈おいらの〉〈おいらがとこ〉などと呼んだのがなまって〈おいらん〉になったというが,ほかにも語源説があり,詳細は不明。…
…なかで,遊女屋が経営する歌舞伎の座を遊女歌舞伎と呼ぶ。京では六条三筋(みすじ)町の遊女屋が四条河原で,江戸では吉原の開設当初は吉原の中に,のちには中橋でそれぞれ舞台を設け,男装したスター級の遊女である太夫(和尚とも呼んだ)の歌や踊りを中心に競って歌舞伎を興行した。お国歌舞伎との第一の違いは,当時最新の楽器である三味線をスターが弾いていることで,50~60人もの遊女を舞台へ登場させ,虎や豹の毛皮を使うなど,いっそう豪奢な舞台ぶりに,数万人もの見物を集めたという。…
…《あづま物語》(1643)は新しく出た太夫を新造とよんでいるが,後にはかむろ(禿)あがりの,姉女郎の部屋に同居中のものを新造といった。吉原ではかむろが14歳ぐらいになると新造として披露した。このとき歯黒めはするが,まだ振袖を着ていたので〈振袖新造〉といい,姉女郎の名代を勤めたりする見習の遊女であり,修行や人気など時期をみて,袖留をしたうえ部屋を与えて一人前の遊女にした。…
…1720年(享保5)の自序がある。江戸の吉原遊廓について,遊女の起源や吉原の創設からを詳しく述べた書。吉原について記したもっとも早い解説書として近世以来珍重されている。…
…江戸吉原の遊女人口は享保年間(1716‐36)以降,3000人から4000人を数えるが,階層の低い遊女が半数を占めており,こうした遊女は死亡した後も無縁仏として,三ノ輪(みのわ)(現,荒川区南千住2丁目)の浄閑寺や,新鳥越橋南詰(現,台東区浅草7丁目)にあった土手の道哲(どうてつ)(浄土宗西方寺の俗称。現在,豊島区西巣鴨に移転),日本堤の正憶(しようおく)院(現在,足立区大谷田に移転)の山門の中に,なにがしかの銭を添えて投げ込まれた。…
…地名は,江戸初期にこの付近に人形師や人形商が集中していたことに由来する。1617年(元和3)江戸幕府が現人形町交差点付近に遊郭の建設を許可し,翌年〈吉原〉として開業,57年(明暦3)の浅草千束村への移転まで続いた。1872年(明治5)南隣の日本橋蠣殻(かきがら)町に芝赤羽橋から水天宮が移って以来,その門前町として発展し,日本橋かいわいで唯一戦災にあわなかったこともあって,現在も水天宮通り(都内最古のアーケード街)を中心に老舗(しにせ)が多く,下町情緒を色濃く残す商店街が形成されている。…
…遊廓にあった茶屋の一種。引手茶屋がもっとも発達した江戸吉原では,高級遊女と遊興しようとする客は,まず引手茶屋にいった。そこで芸者,幇間(ほうかん)らを招き,酒食をとって遊ぶうちに,指名の遊女が従者をつれて迎えにくるので,適当なころに同道して遊女屋へいくのが通常の遊興形式であった。…
…静岡県東部,富士川左岸にある市。1966年吉原市(1948市制),富士市(1954市制),鷹岡町が合体して現在の富士市となる。人口22万9187(1995)。…
※「吉原」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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