日本歴史地名大系 「島田宿」の解説
島田宿
しまだしゆく
〔中世〕
島田郷と称されたうちの中心部が東海道の宿となったとみられる。「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)一二月二三日条に「嶋田」とみえ、京都から鎌倉への帰路、源頼朝が当宿に宿泊している。四代将軍藤原頼経は上洛途上の暦仁元年(一二三八)二月四日に、鎌倉へ帰還途上の一〇月二三日に、また寛元四年(一二四六)七月一六日に当宿に宿泊している(吾妻鏡)。弘安(一二七八―八八)頃東国へ下った高階宗成は「さてきく河の ゆかしきに おなし流や くみてまし 島田まへしま 見わたせは わかるゝせゝの 大井かは ふち枝 おかへ う津の山」と、
永享四年(一四三二)九月、将軍足利義教の富士御覧に随行した飛鳥井雅世は「嶋田川」において「しま田川はしうちわたす駒の足もはやせの浪の音そ聞ゆる」と詠んでいる(富士紀行)。天文一三年(一五四四)一二月連歌師宗牧は暮れはてて島田に着いたが、「山下風吹て疎屋の板戸たまらぬはけしさながら、いさよいの月さよの中山より出て、ふきゆくまゝにうす雪散きつゝ、さらに忘かたきたひね」をしたと記している(東国紀行)。また天文年間に東海道を往復した備前の法華門徒大村家盛は三月二六日に「島田」で昼休みをしている(「参詣道中日記」大村家文書)。弘治二年(一五五六)九月二三日当宿を通った山科言継は、島田について「鍛冶之多在所」であると記している(言継卿記)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報