島田宿(読み)しまだしゆく

日本歴史地名大系 「島田宿」の解説

島田宿
しまだしゆく

[現在地名]島田市本通ほんとおり扇町おうぎまち幸町さいわいまち大井町おおいちよう柳町やなぎまち大津通おおつどおり新田町しんでんちよう祇園町ぎおんちよう日之出町ひのでちよう栄町さかえちよう大川町おおかわちよう新町通しんまちどおり高砂町たかさごちよう御仮屋町おかりやちよう向島町むかいじまちよう向谷むくや向谷元町むくやもとまち合町あいちよう宮川町みやがわちよう中溝町なかみぞちよう若松町わかまつちよう中河町なかがわちよう元島田もとしまだ元島田東町もとしまだひがしちよう松葉町まつばちよう中央町ちゆうおうちよう中溝横井なかみぞよこい・一―四丁目・みなみ一―二丁目・宝来町ほうらいちようあさひ一―三丁目・河原かわら一―二丁目・稲荷いなり一―四丁目・向谷二丁目

志太しだ郡に属し、西境を南東流してきた大井川が当地南西端で流れを東に転じる。西は同川を境に遠江国榛原はいばら金谷河原かなやかわら(現金谷町)、南も同川を境に上湯日かみゆい村など、東は道悦島どうえつじま村など、北は野田のだ村・伊太いた村など。東海道が横断し、中世から宿駅として栄えた。

〔中世〕

島田郷と称されたうちの中心部が東海道の宿となったとみられる。「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)一二月二三日条に「嶋田」とみえ、京都から鎌倉への帰路、源頼朝が当宿に宿泊している。四代将軍藤原頼経は上洛途上の暦仁元年(一二三八)二月四日に、鎌倉へ帰還途上の一〇月二三日に、また寛元四年(一二四六)七月一六日に当宿に宿泊している(吾妻鏡)。弘安(一二七八―八八)頃東国へ下った高階宗成は「さてきく河の ゆかしきに おなし流や くみてまし 島田まへしま 見わたせは わかるゝせゝの 大井かは ふち枝 おかへ う津の山」と、菊河きくがわ宿(現金谷町)前島まえじま宿(現藤枝市)との間の当宿を詠込んでいる(遺塵集)。元徳三年(一三三一)六波羅に捕らえられ鎌倉に護送された日野俊基について、「太平記」巻二(俊基朝臣再関東下向事)に「大井河ヲ過給ヘバ、都ニアリシ名ヲ聞テ、亀山殿ノ行幸ノ、嵐ノ山ノ花盛リ、竜頭鷁首ノ舟ニ乗リ、詩歌管弦ノ宴ニ侍シ事モ、今ハ二度見ヌ夜ノ夢ト成ヌト思ツヾケ給フ。嶋田、藤枝ニ懸リテ、岡部ノ真葛裡枯テ」とある。

永享四年(一四三二)九月、将軍足利義教の富士御覧に随行した飛鳥井雅世は「嶋田川」において「しま田川はしうちわたす駒の足もはやせの浪の音そ聞ゆる」と詠んでいる(富士紀行)。天文一三年(一五四四)一二月連歌師宗牧は暮れはてて島田に着いたが、「山下風吹て疎屋の板戸たまらぬはけしさながら、いさよいの月さよの中山より出て、ふきゆくまゝにうす雪散きつゝ、さらに忘かたきたひね」をしたと記している(東国紀行)。また天文年間に東海道を往復した備前の法華門徒大村家盛は三月二六日に「島田」で昼休みをしている(「参詣道中日記」大村家文書)。弘治二年(一五五六)九月二三日当宿を通った山科言継は、島田について「鍛冶之多在所」であると記している(言継卿記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の島田宿の言及

【島田[市]】より

…また大井神社では3年に1度,帯祭が行われる。【塩川 亮】
[島田宿]
 駿河国の宿駅。大井川下流左岸に位置する東海道の交通の要地として発展する。…

※「島田宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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